2014年のNHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」で主人公の花子の女学生時代の友人として登場したのが仲間由紀恵さん演じる「お蓮様」こと葉山蓮子。そのモデルとなったのが女性歌人の柳原白蓮(やなぎわら・びゃくれん)です。波乱万丈だったといわれる彼女の人生はいったいどんなものだったのでしょうか。
新聞に大きく取り上げられたある事件
1921(大正10)年10月22日の『大阪朝日新聞』に一通の「絶縁状」が掲載され、世間は大騒ぎとなりました。
「良人(おっと)伝右衛門氏に送った 燁子の絶縁状の全文 愛なき結婚と夫の無理解が生んだ 妻の苦悩と悲惨の告白」と題された記事には「貴方に永久の訣別(けつべつ)を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り且培ふために貴方の許を離れます」という別れの言葉が記されていました。
この絶縁状を発表したのは九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻で家族出身の妻・燁子(あきこ)でした。その内容もさることながら、同時に伊藤のもとを出奔して編集者で東京帝大生の宮崎龍介と駆け落ちしたことで世間を騒然とさせます。しかも、そのとき燁子はすでに宮崎との子どもを身ごもっていたのです。「大正三美人」とも呼ばれた美貌をもち、歌人「柳原白蓮」としても活動していた燁子の身にいったい何が起こったのでしょう。
絶縁状の記事を受けて10月25日から28日まで「絶縁状を読みて燁子に与えふ」という反論文が掲載されました。もっともこれは伊藤伝右衛門の執筆したものではなく、記者が伝右衛門に聞いたことを記事に仕立てただけという内容だったため、予定より早く掲載中止となりました。
燁子(白蓮)を駆り立てたものは何だったのでしょうか。彼女の生い立ちを見てみましょう。
一度目の結婚は15歳
柳原白蓮(本名:燁子<あきこ>)は1885(明治18)年に柳原前光伯爵の娘として東京に生を受けました。母は前光の正妻ではなく愛人の一人で、柳橋の芸妓だった没落士族の娘・奥津りょうでした。母が正妻ではないとはいえ、伯爵の娘である燁子は、大正天皇の生母である柳原愛子の姪でもあり、大正天皇の従妹にあたるという出自でした。前光が鹿鳴館で娘誕生の知らせを受けたことが、きらびやかな「燁子」という名付けにつながったといわれています。当時の慣習に従い、燁子は生後すぐに前光の正妻・初子の次女として入籍されました。
初子が母となりそれほど経たない時期に、これも当時の華族の慣習でしたが、燁子は品川の種物を扱う問屋に里子に出されます。それでも里親家族に愛され、乳母のくににいつくしまれて育つことができました。学校に入学する年齢になると柳原家に戻り、1892(明治25)年、麻布南山小学校に通いはじめ、ここからは華族の娘としての教育を受けることになったのです。
9歳になった燁子は、子爵・北小路隨光(きたこうじ・よりみつ)の養女となることになります。北小路家は父・前光の弟が養子となっていたのですが、隨光に男子ができたことで養子関係が解消となり、かわりにその男子・資武(すけたけ)の妻にする条件で今度は燁子が養子となったのでした。ただし、そこに幼い燁子の感情への考慮などあるはずもありません。そしてこの時期に、父・前光は病死しました。
それでも悪いことばかりではありません。燁子は養父の隨光により和歌の手ほどきを受けることができました。北小路家は経済的に苦しかったものの、燁子の「歩いていく」という説得のもと、13歳で華族女学校(現・学習院女子中等科)に入学させてくれました。希望に胸ふくらませる燁子ではありましたが、一方で粗暴な資武に恐怖し、結婚を拒むようになりました。
そんな日々で、ある日燁子は初子が実母でないことを知らされます。「柳原家範」という柳原家の決まりごとのもとで燁子に選択の余地はなく、悲しみの中で資武と結婚。間もなく妊娠して女学校を退学することになりました。1900(明治33)年、北小路邸で質素な結婚式が挙げられ、男子(功光)を出産します。燁子はこのときわずか15歳でした。
功光誕生の半年後、燁子は京都へ一家で引っ越すこととなりました。知らない土地で子の養育も養母の久子に取り上げられ、愛情のない夫を前に燁子は孤独を深め苦悩の淵に立たされます。そのつらさを柳原家に訴えた燁子は、1905(明治38)年、子供は残す条件で離婚し、20歳で実家に戻ることができました。つらい少女時代からの解放の瞬間といえるでしょう。
楽しい学園生活 しかし炭鉱王の元へ「売られる」
ようやく婚家での生活から逃れられた燁子でしたが「出戻り」とされ、母・初子の隠居所で幽閉同然の生活を送りました。しかし、新たな縁談が持ち込まれて燁子はまたも追いつめられてゆきます。家出のように逃げ出した燁子は東洋英和女学校(現・東洋英和女学院高等部)に23歳で編入学して寄宿舎生活を送ることとなり、佐佐木信綱主宰である短歌の竹柏会に入門しました。結婚・妊娠で一度はあきらめた学校生活と短歌に再び触れられるよろこびが燁子を満たし、年下の生徒たちとも打ち解け、中でも後に翻訳者となる村岡花子とは親交を深めました。そして1910(明治43)年3月に東洋英和女学校を卒業します。
しかし、楽しい学園生活を終えた燁子を、またも縁談が襲います。卒業した年の11月、上野精養軒で燁子と九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門との見合いが行われました。伝右衛門は50歳、炭鉱労働者から身一つで成りあがった人物であり、教養などない人間でした。親子ほどの年齢差、不釣り合いな身分の炭鉱王が華族の令嬢をめとるという前代未聞の出来事に、燁子は「売り物になった」と周囲から言われてしまうのでした。また、富豪である伝右衛門からの各方面への資金援助なども面白おかしく新聞に書き立てられました。しかし一方で燁子には、女学校も経営している新しい夫に女子教育への貢献や、年が離れているがゆえの愛情を期待する気持ちもあったのです。
帝国ホテルでの盛大な披露宴、福岡県嘉穂郡大谷村大字幸袋(現飯塚市)にあった伊藤邸の大改築を経て、燁子は新たな家庭へと向かいます。しかし、亡くなった前妻との間には子どもがいない伝右衛門でしたが、愛人との間には娘や養子がいたのです。さらに、この家には複雑に入り組んだ血縁関係の人々や多くの使用人がおり、混沌とした状態でした。燁子は何も知らずこの家族の女主人となることを余儀なくされたのです。しかし、最初の結婚とは異なり、25歳を過ぎて学校教育も受けていた燁子はひるまず、家風の改革に取り組みます。血縁はなくても娘となった静子と初枝の2人には母校に編入学させて教育を受けさせました。燁子の伊藤家改革はしかし女中頭のサキとの対立により、成功することはありませんでした。
結婚生活の苦悩を救ってくれたのは短歌でした。赤裸々すぎる内容から、師である佐佐木信綱の勧めで本名ではなく「白蓮」と名乗ることにします。1915(大正4)年、初めての歌集『踏絵』を自費出版すると、歌壇で賛否を呼びながら話題となり、新聞にも好意的に取り上げられました。人気画家の竹久夢二が挿絵を手がけた豪華な装丁の本の出版の背景には、信綱から夢二への依頼があったといいます。資金は伝右衛門が都合してくれたようです。この年には大分県別府に広大な伊藤家別荘が落成し、多くの文化人が訪れる文化サロンとなり、燁子は「筑紫の女王」とも呼ばれました。別府の別荘を訪れた菊池寛が、1920(大正9)年に出版した『真珠夫人』は燁子がモデルと言われ、ベストセラーになっています。これをもとにした2002年の東海テレビのドラマ(横山めぐみ主演)を覚えている人もいるかもしれませんね。
ついに出奔するが……
1919(大正8)年に発表した戯曲が評判となって本にすることになり、燁子はその過程で宮崎龍介と出合うこととなります。龍介は7歳年下の27歳で時代の先端を走る社会変革の夢を語りました。燁子はそれまで出会ったことのないタイプの隆介に惹かれ、文通を始めます。また、舞台のための上京の間に龍介と2人の逢瀬を持つようになると、龍介の周囲で燁子との関係の噂が広まりました。華族出身の燁子との関係は龍介の周囲では歓迎されませんでしたが、それでも自分を愛してくれると、燁子は一層龍介を愛しました。1921(大正10)年8月、燁子は龍介の子を妊娠したため、ついに伊藤家を出る覚悟を決めて、決行します。これが「白蓮事件」として世に広まりました。燁子36歳、龍介29歳の時の出来事でした。
駆け落ち騒動の最中に生まれた長男・香織を抱えて宮崎家に入った燁子は、経済的困窮に直面します。弁護士となっていた龍介は結核が再発して病床に伏してしまい、父が残した莫大な借金もありました。それでも燁子は必死に執筆し、家計を支えたのです。1925(大正14)年9月、長女の蕗苳(ふき)が誕生しました。生活が困窮する中でも社会の役に立とうとする燁子は、生活が苦しい京都出身の華族の子弟を、学習院へ通わせるために家に住まわせています。その中には北小路家に残してきた実子の功光もいました。
1944(昭和14)年の早稲田大学在学中に学徒出陣した長男の香織は、1945(昭和20)年8月11日、実に終戦の4日前に鹿児島の基地で爆撃を受けて戦死しました。悲しむ燁子に戦争は暗い影を残し、2度と繰り返すまいと「悲母の会」を結成、全国を行脚しました。戦後の燁子は歌人としての活動よりも、平和運動の活動のほうが目立ったと言えます。
1961(昭和36)年、燁子は緑内障で両眼の視力を失い、その後は家族の手を借りながら短歌を読み、ゆったりとした日々を過ごしました。そして1967(昭和42)年2月22日、心臓衰弱のため西池袋の自宅で波乱に満ちた生涯を終えました。享年81歳、遺骨は香織と共に神奈川県相模原市の石老山にある顕鏡寺に納められています。
白蓮の短歌 そして愛とは
ゆくにあらず帰るにあらず居るにあらで生けるかこの身死せるかこの身
野山にも花さきみちり君が代の はるをけふそと祝ひまつらむ
和田津海の沖に火もゆる火の国にわれあり誰そやおもはれ人は
白蓮の短歌は、その恋心を隠すことなく赤裸々につづったのが特徴で「籠の鳥」がもがき苦しむかのような姿を、恋する相手に訴えるようで、いずれも切ない女性の心が表されたものです。しかし、2度にわたるつらい結婚生活の中で短歌という光があったからこそ、彼女は前を向き続けたともいえるでしょう。燁子が白蓮に成り代われる時間を持てたからこそ、生きる希望が繋がったのではないでしょうか。
飯塚市では旧伊藤邸がミュージアムとして公開されており、「おもひきや 月も流転の かげぞかし わがこしかたに 何をなげかむ」という白蓮の作品が刻まれた歌碑があります。伝右衛門は「一度は惚れた女」だとして、白蓮への恨みなどは語ることがありませんでした。教養などはなかったけれども、男気にあふれた人間だったのでしょう。燁子もまた、血のつながらない子どもたちや使用人、伝右衛門の愛人たちを責めることなく、大切に扱っていました。添い遂げることはありませんでしたが、まっすぐで、実は似ていた2人だったのかもしれません。
昨今、不倫問題が執拗に報道されるなど、現代日本では恋愛や結婚への寛容さが失われているように思えます。しかし、親王と愛し合い、その死後はその弟と愛を交わした和泉式部、父の反対を押し切って流人だった源頼朝にしたがった北条政子など、歴史のなかで恋愛は芸術を生み、また歴史を動かしたこともあるものです。そう考えると、「白蓮事件」は華族出身の女性が左翼運動を行っている年下の男性との駆け落ちというセンセーショナルな面を持ちつつも、ゴシップだけが独り歩きしているような感じもないわけではありません。柳原白蓮という人の激しくも美しい短歌にこそ、スポットを当てじっくりとその胸中をあじわってみてはいかがでしょうか。
ひるの夢あかつきの夢夜の夢 さめての夢に命細りぬ
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第2回:日本の女優第一号はこうして生まれた・川上貞奴の生涯
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