毛利元就(もうりもとなり)は、安芸(現在の広島県西部)の国人領主から中国地方全域まで勢力をのばした有力戦国大名です。日本の歴史上では、用意周到で合理的な戦略家として知られています。
元就は暗殺や養子縁組といった権謀術数を尽くしてその地位を盤石なものにしました。子孫が長州藩の藩主となったことから、幕末まで多大な影響を残したといえるでしょう。
彼には3人の息子がおり「三本の矢」という逸話が残されています。どのようなエピソードなのか、元就の妻や子供たちについても併せてご紹介します。
毛利元就は子だくさんだった
戦国時代は、多くの武将が正室以外に側室をもっていました。元就も例外ではなく、正室と側室、そして多くの子供に恵まれています。
正室と側室:妻は4人
元就の正室は吉川国経(きっかわくにつね)の娘・妙玖(みょうきゅう)で、二人の間には3男2女がいました。政略結婚でしたが、息子への手紙に「妙玖のことのみしのび候」と書くなど常に気に留めていたようです。
側室には乃美大方(のみのおおかた)、三吉隆亮妹、中の丸の3人がおり、乃美大方との間にも複数の男子が生まれています。中の丸は子供に恵まれませんでしたが、他の側室の子供たちを教育するなど毛利家に尽くしました。
子供は11人もいた!
たくさんの妻がいた元就ですが、子供はさらに多く11人もいました。特に有名なのは、妙玖が産んだ隆元(たかもと)・元春(もとはる)・隆景(たかかげ)の3人でしょう。側室の子供としては穂井田元清、天野元政、毛利秀包(もうりひでかね)がおり、その他にも家臣の子として育てられた二宮就辰(にのみやなりとき)などがいます。
元就は庶子に対し「虫けらのような分別のない子供たち」と言い、正室と側室の子供を区別していました。これは妻たちに気を使ってのことだったようです。
元就の息子”毛利三兄弟”について
正室の産んだ3人の息子は「毛利三兄弟」として知られています。彼らはそれぞれ、どのような人物だったのでしょうか。
嫡男:毛利隆元
長男・毛利隆元は、毛利家の家督を継ぎ第53代当主となった人物です。実際は元就が実権を握っていましたが、内政に手腕を発揮して父を支えました。
幼少時は大内義隆のもとで人質として過ごし、天文15年(1546)当主に就任したのち義隆の養女・尾崎局(おざきのつぼね)と結婚。弘治元年(1555)、父とともに旧友・陶晴賢(すえはるかた)を滅ぼし順調に出世を重ねましたが、その後は尼子軍討伐に全力を傾けるようになり 、永禄6年(1563)尼子氏への侵攻途上で急死しました。
隆元は温厚な性格で、絵画や仏典書写を好む教養人だったといわれています。武略や計略は苦手で、偉大な父や有能な弟たちへの劣等感から自己卑下することが多かったようです。
次男:毛利元春(吉川元春)
次男・毛利元春は、吉川興経(きっかわおきつね)の養子となり家督を継ぎました。そのため一般的には吉川元春の名で知られています。これは元就による戦略で、安芸国の名門だった吉川氏を乗っ取る形での家督相続だったようです。
元春は兄弟とともに戦いを繰り広げ、毛利氏の山陰地方制圧の基礎を築きました。天正10年(1582)家督を子・元長に譲って隠居しますが、天正14年(1586)秀吉から依頼された九州出征の途中で亡くなります。
元春は元服前に父の反対を押し切って初陣を果たすなど、兄弟のなかでも果敢な性格だったようです。また不美人とうわさだった熊谷信直の娘を自らめとり、女色に溺れないように戒めたというエピソードも残されています。
三男:小早川隆景
三男・小早川隆景は、戦死した小早川興景(こばやかわおきかげ)の養子となり、12歳で竹原小早川家の家督を継ぎました。のちに沼田小早川家も継承し両家を統合。毛利氏の勢力拡大においては山陽地方の統治を担い、兄・元春とともに「毛利両川(もうりりょうせん)」と呼ばれました。信長が死去したとき秀吉の信頼を獲得し、豊臣政権下で五大老の一人として活躍しています。
隆景は普段から戯言を口にしない厳格な性格で、正室・問田大方(といだのおおかた)と接するときも客をもてなすような態度だったといいます。またおいの輝元に対しても厳しく、ときにはせっかんすることもあったのだとか。しかしこれは、宗家主人である輝元を尊敬して、尽くしていたからこそだったようです。
有名な「三本の矢」の逸話
毛利三兄弟は、それぞれまったく異なる性格の持ち主でした。そんな彼らに元就が語った「三本の矢」とは、どのような話だったのでしょうか。
三矢の教えの概要
元就は死ぬ間際に三兄弟を呼び寄せて、一つの教訓を語りました。まずは1本の矢を息子たちに渡して折らせると、それはあっけなく折れてしまいます。しかし次に3本の矢束を折るように命じると、今度は誰も折れませんでした。1本では脆く折れてしまう矢も、束になれば頑丈になる。このことから、三兄弟が強く結束することを訴えたといわれています。
この逸話は「三本の矢」や「三矢の訓」といわれ広く知られていますが、実際には元就より先に隆元がこの世を去っており、臨終の床で直に息子に伝えることは不可能でした。そのため、『三子教訓状』をもとにした後世の創作とされています。
「三子教訓状の教え」とは?
『三子教訓状』(さんしきょうくんじょう)は、弘治3年(1557)11月25日に書かれた元就自筆の書状です。当時60歳を超えていた元就は、この書状で3人の息子たちに一族結束して毛利家を盛り立てていくように諭しています。この教えは14条からなり、長さは約3メートルにも及びました。
元就がこのような書状を書いた背景には、兄弟仲が良好ではなかったことが関係していたようです。また元春と隆景が養子に行った先の吉川家・小早川家に尽力することで、本家の毛利家が危うくなることも憂いていました。この書状については、元就の政治構想を伝える公式文書だったという見方もあります。
偉大なる父:毛利元就
武勇と知略でその名をとどろかせた戦国武将・元就は、多くの妻や子供をもち毛利家の繁栄に尽力しました。元就は筆まめで数多くの書状を残していますが、苦労人だったせいか説教じみたものが多いといわれています。「三子教訓状」はそのうちの一つで、そこからは元就が子供の教育に熱心だったことがうかがえます。そのかいあってか、毛利家は戦国時代から幕末に至るまで家名を保ち続けました。偉大な父の教えは、息子たちにしっかり伝わったといえるでしょう。
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