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【近代日本の女子スポーツ】駆け抜けた青春…彗星のような人見絹枝の生きざま

【近代日本の女子スポーツ】駆け抜けた青春…彗星のような人見絹枝の生きざま

先日の大河ドラマ「いだてん」放送後に話題になった人見絹枝(ひとみ・きぬえ)。演じたのはダンサーとして世界的に活躍する菅原小春さん。その身体能力の高さと演技初挑戦とは思えない迫真の演技に見た人は圧倒されたようです。もっとも、人見絹枝については初めて知った方も多かったのではないでしょうか。そこで今回は、日本の陸上界にいまでも燦然と輝き続ける、人見絹枝の生涯に迫ります。

男勝りな文武両道の少女

岡山県御津郡福浜村(現・岡山市)、稲や地域特産品のいぐさを栽培する裕福な農家・人見家に、1907(明治40)年の元日、1人の女の子が誕生しました。絹枝と名付けられたその子は活発で、幼少期から男の子と外遊びをすることが大好きだったといわれます。尋常小学校入学後も男の子との遊びで勝ったり、建物から平気で飛び降りたりするなど、活発さは相変わらず。一方で学業成績も優秀で、文学的な才能も備えた「文武両道」な少女でした。

家が裕福で勉強もできた絹枝は、父の勧めもあり当時の女子としてはめずらしく高等教育を受けることになりました。そして、倍率が4倍近かった岡山県立岡山高等女学校に進学しました。1920(大正2)年のことです。けれども、通学は容易ではありませんでした。まだ交通網の発達していなかった当時、家から学校まで絹枝は歩いて通うしかなかったのです。その距離は1里半。およそ6キロメートルという道のりでした。しかし、この通学がのちの絹枝の礎を築いたといえるかもしれません。

絹枝が入学した年、岡山高女に和気昌郎が校長として赴任しました。「全人教育」(玉川学園創始者の小原國芳によって唱えられた教育理念で大正デモクラシー期の教育改革運動である大正自由教育運動のなかで生まれた考え)を掲げた和気は、女性のための教育を熱心に行う一方で、スポーツの対外試合に積極的に生徒を出場させました。絹枝も庭球大会に出場しましたが、岡山県女子師範学校に負けてしまいました。よほど悔しかったのか、絹枝は当時としては高価だった自分専用のラケットを購入し、夜遅くまで練習に励みました。練習に次ぐ練習で、家族も顔をしかめるほどの日焼けで真っ黒になった絹枝は、翌年の大会で雪辱を果たしました。負けん気も強く、努力家の絹枝はスポーツにたぐいまれなる才能を発揮、「テニスの人見さん」と呼ばれる一方で1923(大正12)年には岡山県女子体育大会に出場、走幅跳で4メートル67センチを記録し、非公式ではありましたが当時日本最高記録で優勝したのでした。

二階堂トクヨとの出会い

二階堂トクヨ

スポーツ全般に才能を発揮した絹枝は1924(大正13)年、二階堂体操塾(日本女子体育大学の前身)に3期生として入学します。そこで日本の女子スポーツ教育の先駆者である二階堂トクヨから指導を受けるようになりました。すると今度は三段跳びで当時の世界新記録を打ち立て、やり投げでも記録を残します。なんともオールマイティな活躍ぶりでした。

絹枝は二階堂体操塾を1年で卒業し、京都市にある第一高等女学校の体育教師となりました。しかし、絹枝の才能にほれ込んでいたトクヨの要望もあり、体育実技の講師として台湾を巡回後、再び体操塾に戻りました。体操塾は日本女子体育専門学校となり、絹枝は各地の大会で大活躍しました。そして1926(大正15)年には大阪毎日新聞社に入社、運動課に配属されると、記者兼選手として八面六臂の活躍を見せます。絹枝が身長170センチ、体重56キロと当時としてはめずらしく恵まれた体格であったことも、強さには影響しているのでしょう。

さまざまな競技で他を寄せ付けない強さを見せた絹枝も、ヨーテボリで行われた国際女子競技大会で初めて海外遠征をして世界の強さ、トレーニングの重要性などを知ることとなります。そしてそれを行進に伝えようと著書を出版するなどしています。幼いころから培った文武両道の「文」の部分がここに生きていたといえます。

トレーニングだけではなくコーチの重要性も知った絹枝は、1927(昭和2)年から谷三三五(たに・ささご)にコーチを依頼し、200メートル走などで世界最高記録を樹立します。もっとも、第4回日本女子オリンピック大会では50メートル走で国内初の敗北を喫しました。これを機に絹枝はさらに練習を続け、翌年も400メートル走で世界最高をマークしています。しかし、同年の国際大会では予選落ちや敗戦が続くなど、世界の壁を思い知らされたのでした。

女子がそんな格好で……偏見に負けずに走る

アムステルダム五輪女子800m走でリナ・ラトケ(右)と競り合う人見絹枝(左)

陸上に持てるだけの力を注ぎ続ける絹枝でしたが、だれもが彼女を応援したわけではありません。批判や偏見の目も常に彼女のまわりに付きまとっていました。当時は人前で太ももをさらして走ることが日本女性の恥だとする人も少なからずいたのです。しかし絹枝はそれを甘んじて受けるとし「若い女子選手や日本女子競技会には指一つ触れさせない」と書き残しています

そして1928(昭和3)年、アムステルダムで開催されたオリンピックに日本人女子選手として初めて出場しました。もちろん絹枝が強かったから代表として選ばれたのですが、当時ライバルでもあり短距離走の日本記録を保持していた寺尾正・文姉妹は家族の反対にあって出場を見合わせるなど、記録のほかにも越えなくてはならない壁があったのです。今では考えられないことですが、当時はそうした時代だったのです。こうして絹枝はアムステルダムオリンピックに出場、100メートル、800メートル、円盤投げ、走り高跳びに出場しました。すなわち、女子の個人種目すべてです。なかでも800メートルは決勝でドイツのリナ・ラトケの後塵を拝しましたが2分17秒6で2着に入り、日本人女性初のオリンピックメダルを手にしました。1928(昭和3)年8月2日のことでした。

その後、数度国際大会に出場しますが、後進の育成や費用の調達に苦労することが増えました。それでも日本新記録をいくつも打ち立てるなど、練習は欠かさず、しっかりと結果を残しました。

病魔より速く走ることはかなわず

1930(昭和5)年にはそれまでにも増して多くの大会に出場しました。国際女子オリンピックで日本女子チームは6名に増え、なかなかの好成績を残しましたが、アムステルダムオリンピックでの銀メダルほどの感動がなかったせいか、帰国後の世論は決してあたたかくはなく、絹枝の心身には大きな負担がかかりました。そのせいもあってか扁桃腺炎にかかりますが、ほとんど休みをとることができません。

新聞社での仕事や資金調達に忙殺され、絹枝はついに1931(昭和6)年に床に臥すことになります。その後に肋膜炎になり、入院生活は続きました。病室には人見絹枝であることがわからないよう別人の名前の名札がかけられたといいます。恩師であるトクヨは変わり果てた弟子の姿を見て涙を流すほかありませんでした。努力をし続け、常に高みを目指した強い意志の持ち主であった絹枝も長引く闘病生活に「苦しい」と言うようになりました。そして肺炎のため、わずか24歳という若さで絹枝はこの世を去ります。8月2日、アムステルダムで銀メダルを手にしてから、ちょうど3年目のことでした。

「息も脈も高し されどわが治療の意気さらに高し」というのが絹枝の辞世です。きっと治る、また走れる――そんな思いで絹枝はきっと病床で過ごしていたでしょう。苦労の多かった絹枝のことをトクヨは「スポーツが絹枝を殺したのではなく、絹枝がスポーツに死んだのです」と言って悼みました。あまりにも惜しい別れに、告別式には1,000人もが参列しました。その後、絹枝の遺骨は生まれ故郷の岡山ではなく、青森県の最後の看護人藤村蝶の墓所に収められています。

受け継がれていく人見絹枝の思い

絹枝が世を去ってから日本は戦争の道へと進み、金属類回収令が出されました。オリンピックのメダルやトロフィー類も例外ではなく、絹枝の手にした銀メダルも紛失したと思われていました。

しかし、2000(平成12)年になって、驚くべきニュースがありました。絹枝の銀メダルが彼女の使用していた寝具のなかから発見されたというのです。絹枝の魂をかけたメダルは、人知れず生き続けていたのでした。

岡山県総合グラウンド内にある有森裕子像

銀メダルの発見から少し遡って1992(平成4)年、バルセロナオリンピックの女子マラソンで有森裕子選手が人見絹枝以来の陸上女子メダリストとなり、銀メダルを手にしました。有森選手は絹枝と同じ岡山県出身、かつメダルを獲得したのは絹枝と同じ8月2日のことでした。有森選手の努力が実を結んだ陰で、日本陸上女子のパイオニアであり伝説ともいえる人見絹枝がどこかで見守っていたのでしょうか。

24歳という短い生涯だった人見絹枝は、その功績にもかかわらずこれまであまり知られていませんでした。しかし、日本の女子スポーツの歴史を追う際に、決して欠かすことはできない人物です。もし絹枝が長生きしていたら、さらに多くの記録を出し、多くの後進を育てたのでは……と残念にも思いますが、たった24年間をこれほど強烈でまぶしく生き抜いたのは、人見絹枝らしいとも思えます。

2020年の東京オリンピックに向けて、いま多くの女子選手たちが出場を目指して努力を続けています。豊かになった日本の女子スポーツの水脈の源にいる人見絹枝。これからもトラックのどこかで微笑み続けるのでしょう。

<参考サイト>
大河ドラマ「いだてん」
東京女子体育大学 OG列伝 人見絹枝
岡山県立操山高等学校

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