伊藤博文といえば日本の初代内閣総理大臣として有名です。長州藩に生まれた伊藤は、吉田松陰の松下村塾で学んだのち、木戸孝允や久坂玄瑞らと尊王攘夷運動に参加しました。その後は総理大臣のほか枢密院議長や韓国統監などを歴任しています。
政治家として重要な立場にあった伊藤ですが、最期は暗殺されてこの世を去りました。しかしその死には謎が残されているようです。
今回は、暗殺事件の概要や犯人とその動機、また謎とされる部分についてご紹介します。
暗殺事件の概要とその影響
そもそも伊藤はなぜ殺されたのでしょうか。暗殺事件の概要や犯人の動機について振り返ります。
ハルビン市で暗殺される
明治42年(1909)10月26日、伊藤は満州・朝鮮問題について、ロシア蔵相ウラジミール・ココツェフと非公式に話し合いをするためにハルビン駅に向かいました。
伊藤は日本側の列車社内を訪れたココツェフと20分ほど歓談し、宴席が用意されたロシア側の列車に移動するため列車を降ります。ホームに並んだロシア兵やロシアの要人と握手していたとき、3発の銃弾が伊藤の胸や腹部を貫きました。そして約30分後、伊藤は帰らぬ人となったのです。
韓国独立を目指した安重根
ロシア官憲により逮捕された暗殺者は、朝鮮の独立運動家である安重根(あんじゅうこん/アン・ジュングン)でした。彼は群衆に紛れて接近し、至近距離からしゃがんで発砲したそうです。
安は裁判で、日本の暴挙を世界に告発するため自殺や逃走はしなかったこと、本来の目的は伊藤の暗殺ではなく韓国独立と東洋平和であることを口にしました。
この当時、韓国は事実上日本の保護国となっており、諸外国から韓国を守る名目で設置された韓国統監府の初代統監が伊藤だったのです。
事件後、日韓併合される
伊藤暗殺の翌年、寺内正毅統監と李完用首相が「日韓併合ニ関スル条約」に署名し、日韓併合(韓国併合)が行われました。
日本は韓国を保護国化する方針を打ち出しており、すでに実質的な支配権を持つ状況でした。韓国側はこれに激しく抵抗しましたが、伊藤の暗殺により日韓併合の方針が決定し、その実行が急がれることになります。韓国独立を願った暗殺が、逆に日韓併合を急進させたのです。
伊藤の死に残された多くの謎
伊藤の暗殺は安によるものとされていますが、その死には謎が多く異説も囁かれています。真相は未だにわかりませんが、ここでは、その異説についてご紹介します。
銃の種類や狙撃場所が違う?
暗殺から約30年後、伊藤とともに襲撃された貴族院議員・室田義文による『室田義文翁譚』が公刊されました。そこには、伊藤を撃った弾は安のものではなく、駅の2階の食堂から発砲されたものだという記述があったのです。
実際に伊藤の体から摘出されたのはフランス騎馬隊が使用するカービン銃の弾で、安の7連式ブローニング拳銃の弾とは異なります。また伊藤の傷は右肩から斜め下にむけたもので、高い場所から狙われたことを示していました。
室田は真相を求めましたが、日露関係の悪化を恐れる山本権兵衛に反対されその声は封じられました。
併合強硬派による暗殺説もある
伊藤の暗殺は併合強硬派によるものだという説もあります。実は伊藤は、日韓併合には反対していました。そのため暗殺者が韓国人だと知ると「俺を撃ったりして馬鹿な奴だ」と口にしたそうです。自分の死によって日韓併合が加速することを理解していたのでしょう。
もし強硬派による暗殺だとすれば、犯人は伊藤に併合を反対されては困る人だったと考えられますが、これも推測の域を出ない話です。
ロシア側に負傷者がいない
周囲には多くのロシア人がいましたが、彼らにはかすり傷一つありませんでした。そのためロシア側が関与しているのではないかともいわれています。
ハルビン駅はロシアの管轄で、駅周辺は治安が悪いため列車内で会談したとされますが、会談場所としては違和感があります。また伊藤が下車した際、ロシア兵を整列させ閲兵を願い出たのはココツェフでした。これは暗殺するのに絶好のシチュエーションといえるでしょう。
伊藤は日露戦争前にロシアと協定を結ぼうとしていましたが、すぐに日英同盟が結ばれ、日露戦争を早める結果になりました。この裏切りに対する報復という見方もあるようです。
暗殺された伊藤の人物像とは?
暗殺によって命を落とした伊藤ですが、生前は多くの要職に就き、紙幣の顔にもなりました。日本を動かした伊藤は、どのような人物だったのでしょうか。
人々に評価された「天下の英物」
松陰から「政治の才能がある」といわれ、高杉晋作や井上馨ら多くの人物からも高い評価を得た伊藤。大久保利通は彼を「天下の英物」と評し、政治について相談していたようです。
またお世辞を言わず正直者だった伊藤は、明治天皇からも厚い信頼を得ました。日露戦争直前、天皇は早朝に伊藤を呼び出し、その考えを聞いたといわれています。
女子教育にも熱心だった
伊藤は当時まだ広まっていなかった女子教育にも熱心でした。明治19年(1886)「女子教育奨励会創立委員会」を創設、委員には実業家の渋沢栄一や岩崎弥之助らが加わっています。また東京女学館の創設や女子大学設立計画にも協力しました。
岩倉使節団で出会った女子教育者・津田梅子とも交流があり、帰国後は英語指導や通訳のために津田を雇ったといいます。津田とは国の将来について語り合うこともあったそうです。
関連記事:【女子教育の先駆者:津田梅子】アメリカ留学と帰国後の活躍
日韓併合に反対していた
伊藤は韓国を保護国にすることには賛成でしたが、日韓併合には反対していました。国内だけでも巨額の資金が必要なのに、日韓併合すればさらに費用がかさむことが理由だったようです。伊藤は韓国に国力をつけてもらい、38度線以南へのロシア南下を防御してほしいと考えていました。
暗殺される前の歓迎会で、伊藤は「戦争が国家の利益になることはない」とスピーチしています。彼の思い描く世界は、現実とは遠かったようです。
国葬が営まれた
低い身分から立身出世した伊藤は、明治期に内閣総理大臣を4度も務める日本政府の重鎮となりました。要人になってからも質素な暮らしを好みましたが、その思想は壮大だったことでしょう。
伊藤は日清戦争や日露戦争が起こった怒涛の時代を生き、暗殺という最期を迎えました。その死にはまだ隠された謎がありそうですが、真相は今後も明らかにはならないかもしれません。志半ばでこの世を去った彼には、日比谷公園で国葬が営まれました。
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