歴人マガジン

【8月23日は諸葛亮に献杯!】本場・中国の史跡を辿り業績を偲ぶ

湖北省襄陽市にある巨大な諸葛亮像

きょう8月23日は、『三国志』の英雄、諸葛亮(字・孔明)の命日といわれる日。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事で名高い、小説「三国志演義」(三国演義)にそう書かれているためだ(実際は旧暦の話で、今の暦である西暦に直すと234年10月3日が正しい)。

しかし、正史『三国志』を確認してみると、「8月」とあるだけで、「23日に亡くなった」という記述はじつは見当たらない。では実際に正史の該当部分を抜粋してみよう。

(建興)十二年(234年)春、諸葛亮は大軍をことごとく率いて、斜谷(やこく)を通って出撃し、流馬(りゅうば)を用いて輸送をおこなった。武功郡五丈原に根拠地を置き、司馬宣王(司馬懿)と渭南(いなん)で相い対した。諸葛亮はつねづね食糧の供給がとぎれ、おのが志を伸ばせないことを残念に思っていた。そのため兵士を分けて屯田させ、長期間の駐留の基礎とした。

耕す者は、渭水の岸辺で居住民と雑居したが、民衆は安心し、軍隊も自分勝手な真似をしなかった。相い対峙すること百日あまり、その年の八月に、諸葛亮は病に倒れ、軍中で死去した。時に五十四歳。(蜀)軍が撤退したのち、司馬宣王は、諸葛亮の軍営や砦のあったところを視察して、「天下の奇才である」といった。

この一文だけでも、いかに諸葛亮が偉大な人物であったかが分かるというもの。さて、命日の件だが、たしかに8月としか書かれていない。それに、諸葛亮の子孫が住むとされる浙江省の蘭渓市にある「諸葛八卦村」では、命日が8月28日とされている。本場中国でも23日説と28日説があるというのだ。

しかしまあ、一般に膾炙しているのは、やはり8月23日。まずこの日に黙祷を捧げたり、哀悼の意を表して献杯して差し支えないだろう。そこで今回の記事では、本場中国における諸葛亮の史跡を紹介したい。それらを通じ、諸葛亮がいかに現地で敬愛される存在であるかを感じ取っていただきたいと思う。

「三顧の礼」の舞台となった古隆中

諸葛亮にゆかりの深い場所としては、やはりまず中国湖北省の襄陽市である。三国志の時代の荊州北部にあたり、劉表が統治していたところだ。襄陽城から西の外れに位置する「古隆中」は諸葛亮が晴耕雨読の暮らしを営んでいたと伝わる所で、「三顧の礼」の舞台でもある。

「三顧の礼」を再現した人形。関羽・張飛の待ち呆け像も。

諸葛亮は、三度も足を運んだ劉備に対して「隆中対」といわれる方策を示した。俗に「天下三分の計」と呼ばれるものである。そうした歴史的な舞台であるからして、連日大勢の人が訪れる観光名所ともなっている。かなり広い敷地内に、よく木々が生い茂り、いかにも諸葛亮がひっそりと住んでいたような風情がある。

襄陽の市街地へ戻ることにしよう。襄陽の中心部は、城壁に囲まれた都市となっている。城壁自体は明清時代のもので、三国志の時代よりもぜんぜん新しいのだが、風格ある古城の面影からは、存分に三国志の世界を感じとれる。

市街地を走るバスには「古隆中」ブランドの白酒と諸葛亮(銅像)の顔が入ったラッピングバスが走り、襄陽市街には孔明超市(スーパー)も建っている。

襄陽の中心部の近くに「檀渓路」という道があり、そこに愛馬・的廬(てきろ)に乗った劉備像がある。さらに、その東側へ行くと、逃げた劉備が馬もろとも越えて逃げたという檀渓がある。

劉備、檀渓を飛ぶの像。現在の檀渓は、水が少々にごっている。

これは劉表に招かれた劉備が、蔡瑁(さいぼう)らに命を狙われ、宴席の途中で逃げたというエピソードをもとにしたもの。これは「三国演義」独自のものでなく、正史に引用される『世語』にもしっかりと載っている。

襄陽城のすぐ北を流れる、漢水を渡った対岸は樊城(はんじょう)である。「赤壁の戦い」後に、曹仁が守った都市だ。

樊城側には諸葛亮広場という公園があって、その真ん中に高さ十数メートルに及ぶ巨大な諸葛亮像が街を見守っている。周囲のビルとともにそそり立つ雄姿は、まるでガンダムのような巨大ロボを思わせる(1枚目の写真を参照)。そのほか、周辺には徐庶が住んでいたという「徐庶故里」のほか、水鏡先生こと司馬徽が暮らしていたと伝わる「水鏡庄」などが点在している。襄陽には劉備が「髀肉の嘆」をかこっていたころにまつわる史跡が数多くあるのだ。

蜀の桟道を同じ場所に再現した四川省広元市の明月峡

さて、がらりと場所は変わって、かつての「蜀」にあたる四川省へ。諸葛亮が北伐の折、成都から漢中への移動に幾度も往復したであろう蜀の桟道の跡が残る、広元市の「明月峡」を訪ねてみよう。ちなみに先ほどの襄陽からは西に700kmほども離れている。中国の広大さがよく分かるだろう。

当時は蜀から中原(魏)へ至る唯一の交通路であり、「蜀の桟道」と呼ばれる細い道が通じていた。戦国時代から宋の時代まで、多くの人々が絶えず道を掘り続け、数百キロも続く桟道を造ってきた。想像を絶する労苦だったに違いない。

蜀の人々は、この桟道を通じて成都から前線基地の漢中へ物資・食糧を送るため、様々な知恵と工夫を凝らした。悠久の時が経過して桟道は風化し、その形跡もほぼ失われていたが、調査の結果、岸壁に400個ほどの穴が残っていることが確認された。蜀の桟道はそこに復元され、今にその姿を伝えている。

蜀と魏が奪い合った定軍山

次に向かったのは陝西省(せんせいしょう)の漢中・定軍山。高祖・劉邦が拠点とした「漢」の原点だ。建安24年(219)、この地で曹操を破った劉備は漢中王を名乗り、魏攻略の前線基地と定めた。黄忠が夏侯淵を斬ったところとして名高い定軍山は、諸葛亮が北伐に際しても拠点を置いた場所。五丈原で散る間際、諸葛亮は自分が死んだら定軍山へ葬るよう遺言した。

定軍山の近くに諸葛小学校なる立派な学校も建っている。

死んだあとも魏に睨みを利かせ、蜀の鎮守となり、北伐を見守りたいと願ったのだろう。そんな威徳を人々は慕い、この付近の集落に「諸葛村」と名付けたそうだ。

漢中・勉県の武侯祠にある諸葛亮の墓。

漢中市にある勉県の武侯祠は263年、すなわち諸葛亮の死後29年経って、蜀の家臣や民衆の呼びかけに、劉禅が詔を下し、資金を出して建てられた祠である。そのことにちなみ、「天下第一武侯祠」と呼ばれている。ここに諸葛亮の墓があり、この日も多くの人々が参拝に訪れていた。

五丈原(陝西省宝鶏市)

そして諸葛亮最期の地、五丈原である。最も幅が狭い所が五丈(10mほど)であることから、その名で呼ばれるようになったそうだ。成都から実に800km、クルマを使っても相当に時間に余裕がなくては到達できない。

諸葛亮は、ここで兵に土地を開墾させて兵糧の確保に努めた。そして司馬懿との持久戦に臨んだのである。五丈原に上る石段があり、その下に「諸葛泉」なる井戸があった。当時、諸葛亮の軍勢が利用したという湧水が、今も井戸の中から滾々と湧き続けている。

「諸葛泉」の洗濯場で、地元の婦人方が洗濯に勤しんでいた。

陝西省はだいぶ内陸部に入った場所でもあり、水を確保するのにも大変な労力を伴うのだろう。このあたりの人にとって「諸葛泉」は、貴重な生活用水なのだ。水が自由に使えるという、ありがたみを今さらながら噛み締めた。

切り立った地形にある五丈原

この五丈原の戦陣で、その命の炎を燃やし尽くした諸葛亮。当時、諸葛亮が司馬懿の軍を望んだであろう台地に立ち、思いを馳せてみた。度重なる挑戦を挑むも、どうしても越えられなかった魏の大都市への道のり。その無念さを思うと涙を禁じ得ない。

諸葛亮が世を去ってからも三国時代は続いたが、巷の作品では彼の死を持って終えるものが多い。ひとたび諸葛亮の魅力に触れたひとは、たちまち魅了されてしまう。諸葛亮の最期を描いた作家の方々が、そこで筆を置きたくなってしまう気持ちもよくわかる。

連日、大勢の観光客が訪れる成都・武侯祠

最後に紹介するのが成都随一の「三国聖地」と冠される武侯祠である。「武侯」とは諸葛亮のことだ。本来ここは劉備の墓と廟「漢昭烈廟」が造られた場所だが、後世に諸葛亮の人気が爆発的に高まり、いつしか「漢昭烈廟」ではなく「武侯祠」の名前のほうが一般的になってしまった。

武侯祠に祀られている劉備像(左)、諸葛亮像(右)

諸葛亮が生きているとして、その状況を知ったらどう思うだろうか。君臣の序列を無視するのはよくない、「武侯祠」ではなく「漢昭烈廟」と呼んでほしい、と願い出るのではないだろうか。一般には「天才軍師」として知られる諸葛亮だが、私は彼の真の姿は「身ぎれいな政治家」「愚直な指揮官」だったと思うし、そこに憧憬を抱いている。なればこそ1800年近くも経った今でも多くの人に慕われているのだろうと思う。

さて、もうひとつだけ、諸葛亮にまつわる話を紹介しておきたい。8月23日は、奇しくも人形アニメーション作家・川本喜八郎氏(1925~2010年)のご命日でもある。

川本喜八郎作・諸葛亮人形

NHK「人形劇 三国志」の人形を製作され、今なお多くの三国志ファンを魅了される川本氏。東京国立博物館で開催中の「特別展 三国志」では、人形劇で使用されたオリジナルの諸葛亮人形を見ることができる。また、長野県の「飯田市川本喜八郎人形美術館」や、東京の渋谷ヒカリエ8F「川本喜八郎人形ギャラリー」でも、川本氏が後年に製作した諸葛亮人形が展示されている。まだの方は、ぜひとも観賞をお勧めしたい。

文・上永哲矢

 

<関連記事>
【東博の研究員さんに訊きました!】~特別展「三国志」耳より最新情報~
【三国志の貂蝉、唐の楊貴妃など 】謎めいた「中国四大美女」の伝説
【祝・映画「キングダム」公開!】兵馬俑の第一発見者と、李信の故郷を訪ねて

Return Top