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【平治の乱とは?】概要や影響をわかりやすく

【平治の乱とは?】概要や影響をわかりやすく

平安時代に名を挙げた有名な武士といえば平氏と源氏です。彼らは朝廷との関係を深めて台頭し、やがて政治の実権を握っていきました。この両氏の戦いとして有名なのが「保元の乱」と「平治の乱」です。この二つの戦いは一つにくくられることもあるので、混乱する人もいるでしょう。
今回は平氏台頭のきっかけとなった「平治の乱」についてまとめましたので、歴史の復習に役立ててください。

押さえておきたいポイント

・藤原信頼が源義朝とともに信西を自害させ、今度は平清盛が信頼を滅ぼして義朝を討ちとった
・清盛と手を組んでいた信西に反感を持つ信頼が、清盛の留守中に信西を襲撃したことがキッカケだった
・朝廷の皇位継承争いや貴族内部の争いが、武士の力で決着された

平治の乱の背景・経緯

平氏が全盛期を迎えるきっかけとなった平治の乱。
この事件はなぜ起こったのか、その背景や経緯を振り返りましょう。

背景

白河上皇の院政開始にともない、その護衛をしていた武士らが台頭し始めます。それが、もともと各地で反乱を起こしていた地方武士の平氏や源氏でした。
やがて鳥羽法皇が亡くなると、皇位をめぐって崇徳上皇方と後白河天皇方が対立します。崇徳上皇は藤原頼長らと組んで平忠正や源為義をあつめ、後白河天皇は信西(しんぜい/藤原通憲)を参謀に平清盛、源義朝らをあつめました。保元元年(1156)に「保元の乱」が起こると、これを鎮めた平氏が地位を高め、源氏も摂関家と結びつきを強めていったのです。

絵巻『天子摂関御影』の後白河法皇像です。

保元の乱で勝利した後白河天皇は「保元新制」という制度を作り、全国に形成された荘園を整理しました。この国政改革を考えた信西は清盛を重用したため、ここから信西と清盛が台頭していきます。

大事業を行った後白河天皇ですが、亡くなった父・鳥羽法皇は、まだ幼い守仁親王(後の二条天皇)を次期天皇に指名していました。つまり後白河天皇は、守仁親王が成人するまでのつなぎ役だったのです。
守仁親王は後白河天皇の第一皇子でしたが、美福門院(鳥羽天皇の妻の一人で近衛天皇の母)の養子になっており、彼女は鳥羽法皇から広大な荘園を相続していたため絶大な発言権がありました。加えて、彼女をはじめとする二条天皇方の側近は、後白河天皇の院政も阻もうとしたのです。

絵巻『天子摂関御影』の二条天皇像です。

このような事情から、後白河天皇が二条天皇に帝位を譲って院政を始めると、後白河院政派と二条親政派が対立していきました。後白河上皇が頼れるのは信西だけでしたが、信西はもともと鳥羽上皇に仕えていたため美福門院とも結びつきがあります。そこで後白河上皇は、信西にかわる近臣として藤原信頼を抜擢。他にも、藤原成親(藤原家成の三男)や源師仲が院政派に加わりました。

これにより苦境に陥ったのが信西です。信西は妻が後白河上皇の乳母だったため、上皇の義父のような立場でしたが、保元の乱で敗れた藤原頼長の所領をもらうなどして基盤を固めたため、このような状況に不満を持つ者が二条天皇方だけでなく後白河上皇方にも登場したのです。
信頼は、信西や平氏の台頭に不満を持っていた源義朝と手を組み、信西排除という共通の目的をもっていた二条親政派とともに「反信西派」を掲げて戦うことになりました。

経緯

平治物語絵詞・信西巻には、信西の首が薙刀に結ばれて晒される様子が描かれています。

平治元年(1159)12月9日、清盛が熊野参りのために京を離れた隙を狙い、信頼と義朝が三条殿を襲撃します。彼らは後白河上皇と上西門院(後白河の同母姉)を二条天皇がいる内裏内の一本御書所に軟禁状態にし、信西を自害に追い込みました。これにより信頼は政権を奪取しますが、多くの貴族はこれに反感を抱き、二条親政派も密かに離反の機会を狙うようになります。

信西を討った今、二条親政派にとって信頼たち後白河院政派は用済みの状態でした。そこで二条親政派の藤原経宗・藤原惟方は、信西と親しかった内大臣・三条公教を通して帰京した清盛に接触。二条天皇の六波羅への移動を計画し、惟方の義兄弟らが密命で内裏に入ります。清盛は信頼に恭順の意を示し、信頼は清盛が味方になったことを喜びました。

惟方が後白河上皇に二条天皇の計画を知らせると、上皇はすぐに軟禁状態から脱出します。また二条天皇は内裏を出て清盛邸の六波羅へと移動しました。藤原成頼(惟方の弟)がこれを触れて回ると、公卿や諸大夫が六波羅に集結。信頼と提携していた摂関家も参入したことから清盛の官軍としての体裁が整い、信頼・義朝の追討命令が下されました。

平治物語絵巻『平治物語』の敗走する源義朝一行。右の子供が頼朝です。

官軍として出陣した清盛は、内裏が戦場になるのを防ぐために六波羅近辺に移動し、嫡男・重盛、弟・頼盛らとともに戦います。義朝は決死の覚悟で迫ったものの敗走中に殺害され、信頼は信西殺害・三条殿襲撃の首謀者として処刑されました。これにより後白河院政派は壊滅したのです。

事件の収束後、平氏一門の知行は5ヶ国から7ヶ国に増加。実権を握った二条親政派の経宗・惟方は、後白河上皇に対する圧迫を強めました。しかしこれに激怒した上皇は、清盛に経宗・惟方の捕縛を命令し、眼前で拷問にかけます。こうして経宗・惟方は失脚し、信西打倒に関わった者は後白河院政派・二条親政派を問わず一掃されました。

何が変わったのか?

絵巻『天子摂関御影』に描かれた平清盛像です。

鎌倉時代初期の史論書「愚管抄(ぐかんしょう)」によれば、この乱で後白河上皇と二条天皇の有力廷臣が共倒れになったことから、その後は二頭政治が行われました。後白河上皇はのちに出家し、後白河法皇となっています。
清盛はどちらにも与せず行動し、武士で初めて公卿の地位に就きました。要職を独占した平氏一門は政治への影響力を強め、徐々に平氏政権が形成されていったのです。

まとめ

この戦いにより平氏は全盛期を迎えます。これは日本史上でその後長く続くことになる武家社会の始まりでした。しかし『平家物語』にも「盛者必衰のことわりをあらわす」とあるように、平氏の栄華はやがて衰退していきます。
平治の乱では、清盛の継母の嘆願により源義朝の子・源頼朝が一命をとりとめました。それがのちに平氏を滅ぼすことになったのは、なんとも皮肉な話といえるかもしれません。

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