歴史上には名だたる偉人がたくさんいますが、後半生で大きな功績を残した人物といえば伊能忠敬(いのうただたか)でしょう。忠敬は実業家として成功したのち、50歳を超えてから全国を歩いて日本図を作成したことで知られています。2018年が忠敬没後200年だったことや、人生100年時代が提唱されている現代の世情から、彼の生き方や功績には再び注目が集まっているようです。
今回は忠敬の実業家としての活躍や、隠居後に全国推量することになった経緯、また残されたエピソードなどについてご紹介します。
実業家として活躍した忠敬
江戸時代に大偉業を成し遂げた忠敬ですが、その前半生はどのようなものだったのでしょうか。
実業家としての忠敬を振り返りましょう。
幼少期から優れた才覚を発揮
忠敬は、延享2年(1745)上総国山辺郡小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家に末っ子として誕生しました。
もともと酒造家の次男で婿養子として小関家に入った父は、母が亡くなったあと兄と姉を連れて実家に戻り、忠敬だけが祖父母のもとに残りました。10歳になると父の兄が継いだ神保家に引き取られましたが、定住はせず親戚などを転々としたようです。そんな忠敬は幼い頃からそろばんなどで才能を発揮し、17歳頃には余興程度ながら医学も学んだといわれています。
伊能家に婿入りし名主になる
宝暦12年(1762)忠敬は下総国佐原村の酒造家・伊能三郎右衛門家の娘ミチと結婚し、伊能家に婿入りして名主となります。伊能家は酒や醤油の醸造、貸金業、利根水運などに関わっており、村の中でも大きな発言権を持っていましたが、当主不在の期間が長く事業を縮小していました。
そこで忠敬は家の再興に手腕を発揮し、やがて伊能家は名字帯刀を許可され村方後見役を命じられるほど回復します。また天明の大飢饉では、米や金銭を分け与えるなど貧民救済にも積極的に取り組みました。
隠居後の第二の人生
伊能家の再興を果たした忠敬は、隠居して新たな人生を歩みたいと考えるようになります。
そして寛政6年(1794)、家督を長男・景敬(かげたか)に譲り、暦学を学ぶための準備を始めたのです。
高橋至時に弟子入りする
寛政7年(1795)50歳になった忠敬は、江戸の幕府暦局(暦を作成する天文学機関)にむかい、暦局の第一人者である19歳年下の天文学者・高橋至時(たかはしよしとき)に異例の弟子入りを果たします。その後は寝る間も惜しんで熱心に勉強し、やがて「推歩先生」(推歩は暦学のこと)のあだ名で呼ばれるようになりました。
天体観測も学んでいた忠敬は、観測機器を購入して作った自宅の天文台で毎日観測も行っていたといいます。このとき用意した道具は幕府の天文台にも見劣りしないもので、忠敬が観測したもののなかには金星の南中(子午線経過)など、日本初の観測記録もあったようです。
蝦夷地測量事業の担当者に抜擢
この当時の暦局は、地球の大きさがわからず正確な暦作りが難航していました。高橋は最北の蝦夷地まで行って計測すれば正確な値が出せるはずだと考えましたが、蝦夷地は幕府の許可なく立ち入れなかったのです。
ところが寛政4年(1792)ロシアが日本に通商を求めてきます。幕府は蝦夷地の形状を正確に理解していないため、海岸線の詳細がわかる地図が必要でした。そこで高橋と忠敬は正確な地図を作る名目で蝦夷地行きを願い出、地球の大きさを計算するために重要な子午線一度の距離も計測してしまおうと考えます。この意見は見事通り、希望より少ない測量器具ながらも蝦夷地測量が始まりました。このとき忠敬は、事業担当者として幕府から正式に蝦夷測量の命令を受けたのです。
日本全国を測量する旅へ!
忠敬は自ら約80両(現在の1200万円相当)を持ち出し、全国測量の旅を始めることになります。これは忠敬にとって終生の事業となりました。
東日本地図を完成させる
蝦夷地は想像以上に自然が厳しく、測量作業は困難を極めました。険しい岩場に阻まれ海岸線を辿れないこともありましたが、江戸から1600キロ歩き、106日がかりでついに完了。方位の測定は3種類の方位盤と半円方位盤で行われたといいます。こうして完成した『蝦夷地測量図』は幕府を感心させましたが、地球の大きさはいまだわからず忠敬は納得していませんでした。
すると今度は東日本全体の地図を作成するよう命令が下され、忠敬は4年かけてこれを測量します。完成した『日本東半部沿海地図』は一畳×69枚という巨大なもので、幕閣や将軍・徳川家斉も賛辞を送ったほどでした。
「天文方手伝」として幕命を受ける
東日本の測量データを元に地球の大きさを何百回も計算した忠敬は、やがて「緯度一度の距離=28.2里、約111キロ」と割り出します。これは、高橋がオランダから取り寄せた最新天文書の記述と一致するほど正確なものでした。
忠敬の能力を認めた幕府は、忠敬を「天文方手伝」として幕臣に登用。日本全図作成を幕府直轄事業とし、日本全図の作成を命令します。忠敬はこの幕命を天命だと決意し、西日本の測量を開始しました。
「大日本沿海輿地全図」の完成
測量が完了したのは開始から17年が経ったときのことでした。文政4年(1821)7月、日本全図が披露され、ようやく日本の正確な形が明らかになります。忠敬と弟子たちによって作られた『大日本沿海輿地全図』は「伊能図」とも呼ばれ、大図214枚、中図8枚、小図3枚にもなり、江戸後期の最大の国家事業となりました。
忠敬はその3年前に72歳の生涯を終えていましたが、彼の意志を継いだ弟子たちはこの偉業を忠敬のものとして発表します。その総測量距離はなんと約4万キロで、地球1周分に到達していました。
残されたエピソード
最期まで使命を全うした忠敬ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか?
彼の性格がわかるエピソードをご紹介します。
身内もひいきしない厳格な性格
忠敬は厳格な性格だったといわれています。測量期間中は酒を禁じて規律を重んじたほか、能力が低い測量隊を厳しく評価し、息子・秀蔵でさえ内弟子扱いしたのち破門にしています。
また几帳面で我慢強い性格でもあり、測量中には51冊の日記を残しました。この日記はのちに清書され、28巻の『測量日記』としてまとめられています。
倹約と貯金を推奨!?
忠敬は金銭に厳しい一面もあったようです。家人宛ての手紙には、金は必要なものだけに使い貯めることが第一だと書き残しています。晩年病気になり自宅で玉子酒を飲んでいるときも、卵は価格の安い佐原で多めに買って江戸に送るよう指示しました。
その一方、天明の飢饉や九州測量中の利根川洪水では、被災者に施しを与えています。忠敬は意味のあることには金を惜しまず、無駄なことには使わない合理的主義者だったといえるでしょう。
地球1周分を歩き続けた
忠敬は実業家として活躍したのち、後半生でさらなる大偉業を成し遂げました。50歳以降に学問を修めこれほどの功績をあげられたのは、忠敬に並々ならぬ情熱や向上心があったからでしょう。
今でこそすぐに手に入る日本地図ですが、当時の人々は忠敬の命がけの測量のおかげで自分たちが住む土地の姿を認識できるようになったといえます。彼が残した偉業は、時代を超えてこれからも語り継がれていくことでしょう。
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