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【織田信長に仕えた黒人侍:弥助】数奇な運命とエピソードに迫る!

【織田信長に仕えた黒人侍:弥助】数奇な運命とエピソードに迫る!

戦国時代、日本初の黒人武士が活躍していたのをご存じでしょうか? その人物の名前は「弥助」といい、織田信長によって見出され、戦国の日本に身を投じることになりました。あまり広くは知られていない弥助ですが、創作作品に取り上げられることもあり異色の人気を放っています。 今回は、弥助の来日理由や信長に仕えてからの活躍、本能寺の変での奮闘、また弥助に関するエピソードなどについてご紹介します。

弥助の出自と来日の理由

そもそも弥助はどのように日本にやってきたのでしょうか?弥助の出身地や来日の経緯について振り返りましょう。

もともとはアフリカ人奴隷だった

この当時、日本にはポルトガルやスペインからヨーロッパ人が訪れるようになっており、その従者や奴隷としてアフリカ出身の外国人も連れてこられていました。 弥助もそのような人物の一人で、寛永4年(1627)に記された『日本教会史』によれば、ポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)の出身のようです。また『信長公記』には「年齢は26~27歳、十人力の剛力、牛のように黒き身体」といった記述がみられます。

イエズス会の宣教師とともに日本へ

狩野内膳の『南蛮屏風』です。

弥助はイエズス会のイタリア人宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノがインドから連れてきた召使だといわれています。天正9年(1581)にヴァリニャーノが信長に謁見した際には、奴隷として彼を引き連れていました。このような経緯で来日した弥助ですから、信長に気に入られ黒人侍になるとは夢にも思わなかったでしょう。

黒人を見た日本人の反応は…?

ルイス・フロイスがイエズス会本部に送った年報には、黒人を見た日本人の反応についても記載されています。それによれば、京都では黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して喧嘩や投石が勃発。なんと重傷者が出るほどだったそうです。 信長は初めて黒人を見たとき、肌に墨を塗っていると思いなかなか信用しませんでした。そのため衣類を脱がせて体を洗わせましたが、彼の肌はより一層黒く光ったといいます。

織田信長の家臣として躍進!

奴隷として日本にやってきた弥助は、信長によって武士へと変化を遂げます。弥助はどのような立場になったのでしょうか?

「弥助」と名付けられ正式な黒人武士に!

肌が黒いことに納得し興味をもった信長は、ヴァリニャーノにこの黒人を譲ってほしいと交渉します。そして、「弥助」という名前を与えるとともに正式な武士として取り立て、自分の近くに置きました。 イエズス会の記録によれば、信長は弥助をたいそう気に入って、ゆくゆくは城主にしようとしていたようです。加賀大田家(『信長公記』の筆者・太田牛一の末裔)に伝わる写本には、弥助が私宅と腰刀を与えられ、信長の道具持ちもしていたとの記述もあります。

『家忠日記』に描かれた弥助

家康の家臣・松平家忠による『家忠日記』には、弥助は奴隷ではなく俸禄を与えられた武士として書かれており、身は墨のようで身長は約182cmと、容貌についての記述もみられます。これは信長が徳川領を通ったときの様子を描いたもので、甲州征伐からの帰還途上のことでした。この戦いには弥助も従軍していたといいます。

主君の最期と弥助のその後

異国の地で武士として取り立てられた弥助でしたが、やがて主君・信長の死が訪れます。このとき弥助はどのような動きをしたのでしょうか?

本能寺の変で明智軍と対峙!

天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が勃発します。本能寺に宿泊していた弥助は、明智光秀の襲撃を受けると二条新御所に行って異変を知らせました。そして、信長の後継者・織田信忠を守り明智軍相手に奮闘。しかし最後は捕縛されてしまいます。『イエズス会日本年報』によれば、弥助は長く抵抗して戦いましたが、光秀の家臣が近づいて刀を差し出すよう言うとそれに従ったといいます。

明智光秀により一命をとりとめる

リスボン美術館蔵の南蛮屏風には、南蛮寺が描かれています。

こうして明智軍に投降した弥助でしたが、処刑されることはありませんでした。というのも、家臣から弥助の処分について問われた光秀が、処刑を選ばず「バテレン(キリスト教)の聖堂に置くように」と指示したからです。 こうして弥助は南蛮寺に送られ、一命を取り留めたのでした。

その後の消息は不明とされる

主君を失いながらも生きながらえた弥助ですが、関ヶ原の戦い後は史料にもまったく登場しないため、行方知れずとなっています。ただし、フロイスの『日本史』などには黒人が活躍した記述が見られ、『相撲遊楽図屏風』にも肌の黒い力士が相撲をとる姿が描かれていることから、当時の日本で黒人が活躍していたことは確かなようです。

弥助にまつわるエピソード

信長により日本史上に名を残した弥助ですが、史料が少ないため謎な部分が多いといえます。ここでは、そんな弥助についてのエピソードをいくつかご紹介します。

信長の首を持ち出した?

愛知県の西山自然歴史博物館には、信長のものと伝わるデスマスクが展示されています。これは、弥助が持ち出した信長の首から作られたものだと伝わっているそうです。信長は本能寺の変で自害したといわれていますが、その首は見つかっていません。真偽のほどはともかく、興味深い内容といえるでしょう。

児童文学『くろ助』の主人公に!

弥助は児童文学にも登場しています。昭和15年(1940)頃に執筆された来栖良夫の『くろ助』では主人公として描かれ、日本児童文学者協会賞も受賞。この作品をはじめとして、漫画やアニメなど、弥助はさまざまな作品で描かれるようになりました。

ハリウッド映画の主人公に抜擢!?

弥助を題材にした作品は国内だけにとどまらず、ハリウッドでは弥助を主人公とした映画『ブラック・サムライ(仮)』の制作も発表されました。これにより弥助の存在は改めて世界で注目を集め、その素顔に迫ろうという動きが広まっています。この作品では、本能寺の変前後の弥助がどのように描かれるかも注目でしょう。

十人力の剛腕と称えられた黒人侍

宣教師に連れられて奴隷として来日した弥助は、信長に見出されて武士にまで出世しました。十人力ともいわれていた彼は、本能寺の変が起こらなければ織田家の家臣として有力武将となっていたかもしれません。光秀が弥助を武士として見なかったことからも、弥助の存在は信長あってこそだったといえそうです。 弥助の消息は分かっていませんが、彼の存在は今後も創作作品のなかで語り継がれていくことでしょう。

 

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