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【豊臣秀吉の子供は何人?】家運を決めた淀君の子供とその謎

【豊臣秀吉の子供は何人?】家運を決めた淀君の子供とその謎

豊臣秀吉の子供といえば、後継者となった豊臣秀頼が有名でしょう。秀頼は天皇からも認められていましたが、若くして亡くなったため、豊臣家の栄華はそこで途切れてしまいました。しかしもしかするとこれは必然だったのかもしれません。というのも、天下人である太閤秀吉の子供はそれほど多くなかったからです。
今回は、秀吉には何人の子供がいたのか、それぞれどのような人物だったのか、また秀吉の跡を継いだ秀頼にまつわる謎についてご紹介します。

秀吉の子供は何人いた?

戦国時代は側室をもつのも当然で、子だくさんだった武将も多くいます。秀吉の場合はどれくらい子供がいたのでしょうか?

女好きでも子宝に恵まれなかった秀吉

秀吉は女好きとして知られており、彼が長浜城主だったころ、正室のねね(高台院 / 北政所)が主君・織田信長に夫の浮気を訴えたという逸話が残されています。そのほかにも数々のエピソードをもつ秀吉ですが、それほど女好きだったにもかかわらず子宝には恵まれなかったようです。現在では、秀吉が男性不妊だったという可能性も示唆されています。

10人以上いた子供のうち実子は4人

秀吉には、正室のねねのほかに15人前後の側室がいました。ルイス・フロイスの『日本史』には、秀吉の側室は300人といった記述もみられますが、これは秀吉の性格を表した一文といえます。
側室の数に対して子供の数は少なかったようで、10人以上いた子供のうち実子は4人といわれています。

秀吉の4人の子供たちとは?

秀吉の実子といわれている4人の子供は、どのような人物なのでしょうか。それぞれの子供についてご紹介します。

庶長子:羽柴秀勝 (石松丸)

庶長子の秀勝は、秀吉が信長の家臣として長浜城主を担っていたころに生まれました。しかし、わずか6歳で亡くなってしまいます。秀吉はその後も「秀勝」という名前を何度かつけていますが、これは織田家宿老の丹羽長秀と柴田勝家の名前から1文字ずつ受けたものだという説があります。

嫡男:豊臣鶴松

鶴松は秀吉の嫡男として山城淀城で誕生しました。秀吉が53歳のころに生まれた子供で、秀吉は待望の我が子の出生を喜んだといいます。しかし鶴松は病弱で、国内外から名医を集めるなど手を尽くしたものの数え年3つで亡くなりました。その遺骸は東福寺に運ばれ、落胆した秀吉は髻(もとどり)を切って喪に服し、徳川家康や毛利輝元ら諸大名たちもこれに従って剃髪したそうです。

次男:豊臣秀頼

京都・養源院所蔵の豊臣秀頼像です。

秀頼は秀吉が57歳のときに誕生し、後継者として育てられました。慶長3年(1598)8月、5歳のときに秀吉が死去し、家督を相続して大坂城に入城。その後、石田三成ら豊臣政権の奉行と家康が対立するようになり関ヶ原の戦いに突入します。豊臣方はこの戦いに敗れ、約220万石から約65石へと転落しました。これにより徳川の世はほぼ決定づけられましたが、豊臣家は家康への従属に反発し、方広寺鐘銘事件を発端に大坂の陣が勃発します。秀頼は大坂夏の陣で自害し、23歳の生涯を終えました。

長女:名前不詳

秀吉には長女となる娘もいましたが、詳しい情報は残されておらず名前は不詳です。庶長子・秀勝と同様、この女児も早くに亡くなりました。

秀吉の妻とその子供の明暗

秀吉の子供を産んだのはいずれも側室で、その子供のほとんどは早死にという悲しい結末を迎えています。秀吉の妻とその子供たちの明暗は、はっきりわかれたといえるでしょう。

正室:ねねとは恋愛結婚だったが…

高台寺所蔵の『絹本着色高台院像』です。

秀吉とねねは当時としては珍しい恋愛結婚でした。ねねは秀吉に嫁ぐ際、母・朝日から身分の差を理由に反対されたといいます。しかし兄・家定が秀吉と養子縁組すると諭したことで無事に結婚に至りました。ただし、周囲に反対されたことや秀吉の身分が低かったことから、結婚式は質素なものだったといいます。
このような障害を乗り越えて結婚したものの子供は授からず、縁者たちを養子や家臣として育てたようです。

側室:南殿との子供は夭折

側室・南殿は、秀吉が長浜城主だったころの側室とされています。長男・秀勝(石松丸)と長女の女児を産みましたが、両者ともに早世してしまいました。彼女は子供に先立たれた後に竹生島・宝巌寺で出家し、寛永11年(1634)に死去したといわれています。

側室:淀殿との子供が家運を決めた

奈良県立美術館収蔵の『傳 淀殿畫像』です。

淀殿は浅井長政とお市の方(信長の妹)の間に生まれた三姉妹の一人で、両親が自害した後は織田信雄が面倒をみていたといわれます。淀殿が秀吉の側室となったのは天正16年(1588)頃のことで、翌年には鶴松を産みましたが、わずか3年で早世。その後の文禄2年(1593)に秀頼を出産し、伏見城で秀吉が亡くなった後は後見人として政治に介入して豊臣家の家政の実権を握りました。
なかなか男児が育たなかったなか、淀殿が産んだ秀頼は豊臣家の家運を決定づけたといえるでしょう。

豊臣家の後継者・秀頼の謎

天下人・秀吉の後継者となったのは、淀殿との子である秀頼です。しかし秀頼には、ある疑惑が囁かれています。

本当の父親は秀吉ではない?

秀頼には、秀吉の子供ではなかったという非実子説があります。実は淀殿は、秀吉が朝鮮出兵の文禄の役で多忙だった時期に懐妊しているのです。秀吉はこれを不審に思ったのか、淀君周辺の女房や仏僧を処刑追放しています。
本当の父親説が囁かれているのは、淀殿と乳兄弟にある戦国武将・大野治長です。彼は当時から淀殿と密通しているという噂があり、江戸時代の文献には秀頼が彼の子であるとの記述もみられます。

秀頼擁立は秀吉と淀殿の思惑が重なったせい?

もともと秀吉は、関白職を譲った養子・秀次を後継者にする予定でした。ところが秀頼が生まれたことで、秀次を自害に追いやり、後継者を変更したのです。こうして擁立された秀頼は実子ではない可能性があるものの、織田家の血を引くため跡継ぎとしては申し分なく、諸大名を束ねる上でも好都合だったといえます。
一方、淀殿にとって秀吉は母の仇でもありました。20歳前後の彼女が50歳近い秀吉の側室になったのは、豊臣家の権力を利用して浅井家の血を繋ごうとしたからとも考えられます。
真実は定かではありませんが、秀頼が擁立された裏にはさまざまな思惑があったのではないでしょうか。

やがて豊臣宗家は滅亡へ…

天下統一を果たした秀吉の後継者となったのは、淀殿の産んだ秀頼でした。しかし彼は、大坂の陣によりこの世を去ってしまいます。農民から天下人に上り詰めた秀吉の栄華は、豊臣宗家が滅亡したことで途絶えたのです。
秀吉の辞世の句「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢(露のようにこの世に生まれ露のように消えていく自分。大坂城で過ごした日々は、夢を見ているようなことだった)」は、まさに豊臣家の栄枯盛衰を表しているといえるでしょう。

 

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