【戦国最後の戦い:大坂の陣】豊臣滅亡と徳川天下を決めた戦の概要

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【戦国最後の戦い:大坂の陣】豊臣滅亡と徳川天下を決めた戦の概要

戦国の世で最大の戦いといえば「関ヶ原の戦い」を思い浮かべる人も多いでしょう。しかしこの戦いのあとにも、ある合戦が繰り広げられました。それこそ戦国最後の戦いとなった「大坂の陣」です。
これは江戸時代初期に大坂城で勃発した「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」という2つの戦いの総称で、この合戦により豊臣家は滅び、徳川家康方の天下は完全なものとなりました。
今回は、大坂の陣が起こった原因や戦いの経緯、豊臣方の敗因などについてご紹介します。

大坂の陣が起こった原因

関ヶ原の戦い後、加増や改易の主導権を握った家康は、全国の諸大名を支配下におきました。しかしそれでも脅威は残っていたのです。

豊臣家と徳川家の思惑とは?

豊臣家は関ヶ原の戦いの戦後処理で、約220万石から約65万石の一大名に転落していました。しかしそれでも一定の影響力を保っており、朝廷は豊臣秀頼に対し秀吉と同様の礼遇をしていたといいます。
家康は戦いに勝利したものの、立派に成長した秀頼や豊臣恩顧の武将に脅威を感じていました。家康が目指すのは徳川家を頂点とした長期的な安定政権だったため、豊臣家を服属させるか処分する必要があったのです。家康は秀頼に臣従を求めたり名古屋城築城を命じたりしましたが、秀頼の母・淀殿が拒否したため、うまくいきませんでした。

方広寺鐘銘事件で対立する

事件の発端となった方広寺の鐘です。

そのような中、慶長19年(1614)「方広寺鐘銘事件」が起こります。豊臣家は京都の方広寺大仏殿を再建しており、その梵鐘には「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が刻まれていました。家康方は、これは徳川家を冒とくし豊臣家の繁栄を願う内容だとして抗議し、大仏開眼供養の延期を命じます。秀頼の守役・片桐且元(かたぎりかつもと)が釈明に向かったものの、家康の策略で内通を疑われる事態に陥り、両者の対立は確実なものとなりました。

戦いの経緯:大坂冬の陣

対立が深まった末に起こった大坂冬の陣は、どのような戦いだったのでしょうか。その経緯を振り返ります。

歴戦の浪人衆が豊臣方として参戦

徳川方は融和策をとるあいだも戦の準備を進めていましたが、やがて豊臣家も恩顧の大名や浪人たちに檄を飛ばすなど合戦準備に入りました。籠城用の武器や兵糧の購入、総構えの修理や櫓の建築などを行い、秀吉の遺産で全国から浪人たちを招集。その総兵力は10万人におよび、その中には真田幸村(信繁)明石全登後藤又兵衛長宗我部盛親毛利勝永といった歴戦の武将の姿もありました。

真田丸の戦いで徳川軍を撃退!

広島市立中央図書館蔵の『諸国古城之図 真田丸(摂津)』です。

戦いが始まると、徳川幕府方は約20万の兵力を大坂に集結させました。諸大名らの軍勢はそれぞれの国許から指定地点に集められ、福島正則や黒田長政ら寝返りの可能性がある大名はその子のみが参戦。家康自身も二条城から奈良経由で大坂に向かい、徳川軍は大坂城を完全包囲します。
しかし接近時に起こった「真田丸の戦い」では、真田幸村が構築した真田丸により幕府軍を撃退するなど、豊臣軍も善戦しました。

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和議により堀を埋め立てる

2倍以上の軍勢で戦った徳川方でしたが、豊臣方の買い占めにより兵糧不足に陥ります。また豊臣方も兵糧と弾薬が不足し、将兵たちに疲れが溜まりました。これにより両者は和議を締結しますが、家康は朝廷の介入を拒否し、あくまで徳川主導でこの交渉を進めていきます。
この和議では秀頼の身と本領の維持が約束されたものの、大坂城は本丸を残して二の丸と三の丸を壊し、堀を埋めたてることが条件となりました。

戦いの経緯:大坂夏の陣

一旦は収束した大坂の陣でしたが、約半年後には再び戦いが始まります。この大坂夏の陣は、戦国の世最後の戦いとなりました。

戦争準備を進め、再度開戦する

東京国立博物館蔵の『大坂冬の陣図屏風』です。

駿府城に戻ったあとも戦いの準備を進めていた家康は、浪人たちが堀や塀を復旧させようとしていることを知ります。そのため家康は、畿内の大名たちに浪人の捕縛を命じ、豊臣家には移封を要求しました。豊臣家臣・大野治長が移封は辞したいと申し出たものの、治長が襲撃され交渉は決裂。両者は再び戦うことになりますが、堀を失い兵力も78000人に減少していた豊臣軍は苦戦を強いられたのです。

大坂城、燃え上がる炎の中で陥落

堀がなくなった大坂城には、もはや徳川方を防ぐ術はありませんでした。真田隊を打ち破った松平忠直軍を筆頭に、続々と徳川軍が乱入。大坂城台所頭の大角与左衛門までもが徳川方に寝返り、その手下がつけた火により大坂城は燃え上がります。その火は京都からも見えるほど夜空を真っ赤に染めたといいます。

淀殿とともに自害した豊臣秀頼

翌日、秀頼の妻・千姫(徳川秀忠の娘でもある)が大坂城から救出されます。彼女は秀頼と側室の娘・天秀尼を自らの養女にして助けましたが、秀頼と淀殿に対する助命嘆願は叶いませんでした。そのため、秀頼は淀殿とともに蔵の中で介錯され自害したのです。
この戦いの最後は悲惨なものだったといわれ、大坂城天守閣所蔵の屏風絵『大坂夏の陣図屏風』(通称:黒田屏風)には落城後の混乱が描かれています。

勝ち目はあった?豊臣方の敗因とは…

大坂の陣で豊臣方が敗北した理由は、堀の埋め立てにあったといわれています。しかしそれ以外にも敗因と思われるものがいくつかあるようです。

味方になる大名がいなかった

大坂の陣では秀頼に味方した大名はいませんでした。すでに徳川の世になっていたこの当時、豊臣家を支えようとする大名はいなかったのでしょう。これは豊臣方にとって大きな敗因の一つといえそうです。ただし毛利家や福島家は、秘密裏に兵糧支援をしたといわれています。

統制がとれなかった

大坂方に集まったのは、一部の武将や元大名を除いて浪人のみでした。そのため優秀な指揮官が少なく、うまく統制がとれなかったとも考えられています。これは作戦に乱れが生じる原因ともなりました。
ただし烏合の衆だからこそ輝いた逸話もあります。大坂の陣では、幸村が徳川本軍に突撃し家康に自害を覚悟させたといわれています。

籠城に頼りすぎた

現在の大坂城は、徳川により再建されたものだといわれています。

この戦いでは大坂城での籠城が採用されましたが、もともと豊臣軍内部の軍議では意見が割れていました。治長は籠城で敵を疲弊させて有利な講和を引き出そうという考えでしたが、幸村はまず畿内を制圧して諸大名を味方につけ、それができなければ籠城するという二段階の策を主張したのです。
地の利を活かせば10万人の兵力で敵の侵入を阻止できたかもしれませんが、早々に籠城したことで難しくなったといえるでしょう。

約150年の戦国の世が終焉を迎えた

大坂の陣は豊臣方に味方する大名がいなかったため、もともと多勢に無勢な戦いでした。そのため関ヶ原の戦いほど大きなインパクトはないかもしれませんが、この戦いによって豊臣滅亡と徳川天下が決定づけられたことを考えると確かな意義があったといえるでしょう。
応仁の乱以降150年も続いてきた戦いは、大坂の陣により終止符が打たれました。これは時代の大きな転換点となり、その後260年あまり続く江戸幕府の繁栄へと繋がっていくのです。

 

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