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【「わび茶」を確立した茶聖:千利休】その功績と人物像を振り返る

【「わび茶」を確立した茶聖:千利休】その功績と人物像を振り返る

戦国時代は合戦の尽きない時代でしたが、その裏でさまざまな文化もうまれました。なかでも武将の間で流行したものの一つが、茶の湯です。その道で活躍した千利休は「わび茶(侘茶、侘び茶)」を完成した茶聖として知られ、その子孫は茶道の三千家として続いています。
今回は千利休について、茶の湯で出世するまでの経緯や信長側近としての活躍、おもな功績、人物像がわかるエピソードなどについてご紹介します。

茶の湯で出世した利休

茶の湯で大成した利休は、若くして茶の湯の世界に入りました。その出自はどのようなものだったのでしょうか?

17歳で茶の湯を習う

利休は和泉国の堺の商家・田中与兵衛の息子としてうまれました。家業は塩魚を独占的に扱う商人や倉庫を貸す「問」だったのではないかといわれています。本名は田中与四郎といい、法名は宗易、利休は晩年の居士号(法名の下につく名前)です。
17歳のころ、教養や知識を深めるために茶の湯を習い始め、北向道陳(きたむきどうちん)に師事。『南方録』には、その後は武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事し茶の湯の改革に取り組んだことが記されています。
利休は堺の実質的支配者だった三好家の御用商人となって財を成したと考えられており、村田珠光が使っていた名物道具・珠光茶碗を三好実休に売った記録も残されています。また、京都紫野の大徳寺とも親交があったようです。

茶頭として織田信長に召し抱えられる

永禄12年(1569)堺は織田信長の直轄地となり、利休は豪商茶人・今井宗久や津田宗及とともに茶頭(茶の師匠)として信長に召し抱えられます。天正2年(1574)3月に開かれた信長の茶会にも参加しており、宗及の『信長茶会記』には堺の有力商人9人とともに招待されたという記録が残っています。
利休の働きは茶の湯にとどまらず、越前一向一揆掃討戦では鉄砲玉を信長に送り、謝状も受け取っています。

豊臣秀吉の側近として活躍

信長に見出された利休は、のちに豊臣家に仕えるようになります。
そしてさらなる活躍を見せるようになりますが、その人生の最期は意外なものでした。

茶室「待庵」をてがける

天正10年(1582)6月、本能寺の変があった後、利休は信長に代わって豊臣秀吉(羽柴秀吉)に仕えます。そして同年8月、秀吉から茶室を作るよう命じられ、約半年間かけて茶室「待庵」を完成させました。これは現存する利休作の唯一の茶室で、現在は国宝となっています。
天正11年(1583)5月に開かれた秀吉の茶会では初めて茶頭を務め、『宗湛日記』によればその翌年には大坂城内の庭園に2畳の茶室を制作。これ以後、利休は茶道具も創作するようになりました。禁欲主義を思わせる装飾性のない彼の作品は利休道具と呼ばれています。

居士号「利休」を賜り名声を得る

天正13年(1585)秀吉の禁中茶会に奉仕した彼は、正親町天皇から居士号「利休」を賜ります。その後の活躍は目覚ましく、同年中に「黄金の茶室」を設計し、その2年後には北野大茶湯を主管。また聚楽第内に利休屋敷を構えて3000石を賜わるなど名声と権威を誇りました。

秀吉の逆鱗に触れ、切腹!

秀吉のもとで大きく飛躍した利休ですが、天正19年(1591)突然秀吉の逆鱗に触れてしまいます。堺で蟄居(自宅謹慎)を命じられた利休は、京都に呼び戻されたのち聚楽屋敷内で自害を迫られ切腹。利休の弟子だった前田利家、古田織部、細川忠興らの大名達が奔走したものの助命はかなわず、利休の首は一条戻橋でさらされました。

利休が残したおもな功績

千利休の名前は現代でもよく知られていますが、おもな功績とはどんなものなのでしょうか。利休が残した2つの偉業をご紹介します。

「わび茶」の完成

利休は「わび茶」と呼ばれる茶の湯の様式を完成させました。これは安土桃山時代に流行した簡素簡略の境地「わび」の精神を重んじたものです。当時の茶の湯は高価な茶碗や派手な演出が好まれましたが、「わび茶」ではそのような無駄は排除されたのです。
利休は自ら器具をデザインしたり、茶を飲む空間にも手を加えたりしました。それまで数寄屋と呼ばれる書院造の部屋の一部を茶席としていましたが、彼は茶室を独立させて「草庵」を生みだします。これはのちに「囲い」とも呼ばれるようになりました。

「黄金の茶室」の制作

利休のもう1つの功績といえば、黄金の茶室を作ったことでしょう。これは運搬できる組み立て式の茶室で、正親町天皇や北野大茶湯などでも披露されました。当時の記録によれば、壁、天井、柱、障子などすべてが金張りで、使用の際は黄金の台子や皆具が置かれたといいます。
利休は秀吉の命令でこの茶室を作りましたが、これは「わび茶」とは対極にあるものです。そのため、利休は秀吉に対して不満を持っていたのではないかとも考えられています。

利休はどんな人物だったのか?

茶人として名を成した利休ですが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか。利休にまつわるエピソードをご紹介します。

秀吉の相談役でもあった

秀吉の信頼を得ていた利休は、相談役を担い政治にも関わっていました。この時代の茶室は密談の場としても使われていたため、利休は多くの情報を耳にしていたことになります。天下人である秀吉にとって、利休は相談役に適していたといえるでしょう。
そんな利休は諸大名からの評価も高く、大坂城内でも秀吉の弟・秀長と同等の権威を持っていました。しかしこれはのちに、秀吉から警戒される理由にもなります。利休の切腹は、秀吉がその力を恐れたからだともいわれています。

多くの弟子を抱えていた

利休には、「利休七哲」を筆頭に多数の弟子がいました。武将や大名の中にも弟子がおり、秀吉が恐れた蒲生氏郷をはじめ、明智光秀の娘・ガラシャの夫である忠興や織田有楽斎など、幅広い人々と交流をもっていたのです。利休の「わび茶」の精神はそれだけ多くの人を魅了したといえるでしょう。

茶道の総合プロデューサーだった!?

千利休作と伝わる、竹花生の銘「音曲」です。(石水博物館蔵)

利休はただの茶人ではなく、茶道の総合プロディースも行っていました。茶室内の光を自在に操る合理的で自由な空間作りや、茶室の設計、花入・茶杓の制作など、茶道の世界に次々と新しいものを取り入れたのです。茶会の形式を簡略化してわび道具を制作するといった総合プロデュース力こそ、彼が茶聖と呼ばれるようになった理由かもしれません。

切腹の真相は謎とされる

時の権力者に重用され歴史の表舞台に躍り出た利休は、「わび茶」を大成させその名を残しました。信長や秀吉をはじめ名だたる武将に信頼されていたことから、利休の人格や能力の高さがうかがい知れるでしょう。
最後は武士のように潔く切腹しましたが、自害理由は諸説あり真相はわかっていません。しかし彼が残した功績は、後世に大きな影響を及ぼしました。

 

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