天下統一した徳川家康は、戦国の世を終わらせ、江戸幕府を開いたことで知られています。そんな家康も、もちろん戦いに負けたことがありました。家康はその生涯で何度か死を覚悟したことがあるといわれますが、そのうちの一つが武田信玄との合戦「三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)」です。
今回は三方ヶ原の戦いが起こった背景や経緯、その後の影響などについてご紹介します。
押さえておきたいポイント
- 上洛中だった武田軍を、徳川・織田の連合軍が迎え撃った
- この戦いで武田軍は圧勝した
- 家康にとって生涯で一番の敗戦となった
三方ヶ原の戦いの背景・経緯
そもそもなぜ三方ヶ原の戦いは起こったのでしょうか?その理由は、当時の情勢に関係していました。
背景
この当時、甲斐国の武田信玄は信濃に侵攻して領土を拡大していました。信玄は越後の上杉謙信と何度も戦いを繰り広げましたが、永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いをキッカケに方針を変更。それまで同盟国だった駿河・今川氏の領国に侵攻します。信玄は今川氏と同盟関係にあった相模の北条氏から挟撃されたものの、今川領国を確保し、やがて家康がおさめる三河・遠江へと侵攻していきました。
家康はもともと今川氏に臣従していましたが、桶狭間の戦いで信長が今川義元を倒したあとは、独立勢力として信長と同盟を結んでいました。しかし、すぐ隣には戦上手として知られる信玄の領土があり、いつ攻められてもおかしくない状況だったのです。
そのようななか、元亀2年(1571)に室町幕府15代将軍・足利義昭が織田信長討伐令(第二次信長包囲網)を出します。義昭はもともと信長の協力のもとに将軍に就任しましたが、両者の思惑が違っていたことから徐々に関係が悪化し、ついには対立するようになったのです。
信長包囲網に応じた信玄は、北条氏との甲相同盟の復活により背後の心配がなくなり、西上作戦に乗り出します。信長打倒に向けた上洛が目的だったといわれるこの遠征で、信玄は兵を3つに分けて、遠江国・三河国・美濃国を同時に侵攻しました。先陣をきったのは山県昌景隊、そこから途中で秋山虎繁隊がわかれ、最後に信玄本隊が動きます。
北条氏の援軍をふくむ信玄本隊の大軍は、通常なら約1か月かかる支城攻撃をおよそ3日でこなし進撃。一方の家康軍は兵力が少なく、別働隊の対応もあったため遠江の防衛力はさらに乏しい状態でした。
武田軍は徳川氏の支城である二俣城を狙います。三方ヶ原台地の北端にある二俣城は、徳川氏の本城・浜松城とその支城を結ぶ要所で、家康としてはなんとしても守りたい場所でした。家康は敵情視察のために本多忠勝らを派遣しますが、ここで武田軍本隊と遭遇して敗走。武田軍はついに二俣城を包囲し、家康が降伏勧告を拒否したため攻撃を始めます。わずか1200人ほどの兵力だった二俣城でしたが、決死の抵抗により膠着状態が2か月も続きました。しかし、指揮を任されていた武田勝頼が城で利用する井楼を破壊すると、二俣城は助命を条件に開城したのです。
経緯
次の狙いは浜松城だろうと考えた家康は、籠城戦に備えました。ところが武田勢は、まっすぐ進まず三方ヶ原台地を横断し、まるで浜松城を素通りしてその先を目指すかのように進んだのです。実はこれは、家康を挑発して誘い出そうとする信玄の作戦でした。信玄はあらかじめ三方ヶ原の地形を把握し、自分が目前を通り過ぎれば、家康は追撃のチャンスだと思い戦いをしかけてくるだろうと考えたのです。
その思惑にはまった家康は、一部の家臣の反対を押し切って積極攻撃に作戦を変更します。武田軍を背後から襲うべく浜松城を出発した家康でしたが、夕方に到着した三方ヶ原台地で目にしたのは驚きの光景でした。なんとそこには、魚鱗の陣を敷いて万全の構えで待つ武田軍がいたのです。中央が前方に突き出た魚の鱗のようなこの陣形は、短期決戦を狙える信玄愛用の陣形です。不利な状況に陥った徳川勢は、左右に薄く広がる鶴翼の陣で対抗。しかしこの陣形では、とても勝てるはずはありませんでした。
家康がわざわざ勝てない陣形を使ったのには、当時の家康の立場が関係していたと考えられます。この戦いで家康は、織田方から平手汎秀や佐久間信盛といった援軍を得ていました。また最新の研究によれば、信長自らも2万人という大軍を連れて三河に進軍中だったのです。
今川氏から独立した家康がここで降参すれば、信玄からも信長からもどのような仕打ちをされるかわかりません。しかし、戦う意思を示しながら大敗すれば、大軍を相手にしたのだから負けても仕方ない、という口実が得られます。そのため家康は、被害を最小限に抑えて逃げやすいように布陣し、徳川氏のために「立派に戦ったが負けた」というポーズをとったと考えられるのです。
午後4時ごろに始まった戦いは日没までのわずか2時間で決着し、総崩れとなった徳川方は多くの有力家臣を失いました。約2000人もの死傷者が出るなか、家康は身代わりをたて、わずかな供回りで浜松城に敗走します。浜松城に到着した後は、城門を開いて篝火を焚き「空城計」を実行。これは敵を自分の陣地に招き入れ、自軍の戦闘能力を錯覚させて警戒心を誘う心理戦で、浜松城まで追撃した山県昌景隊はこの様子を見て引き揚げたといいます。
この日の夜、家康は一矢報いるために犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を夜襲しました。これにより大勢の武田軍が転落死しましたが、これは後世の創作という説もあるようです。
登場人物
【武田軍】
武田信玄
武田勝頼
など
【徳川・織田連合軍】
徳川家康
佐久間信盛(※織田援軍)
など
戦の概要
年月日:元亀3年12月22日(1573年1月25日)
場所:遠江国敷知郡の三方ヶ原
交戦勢力:
武田軍…27,000 ~ 43,000人
徳川・織田軍…11,000 ~ 28,000人
何が変わったのか?
この戦いの後、武田氏は正式に信長と断交し、徳川氏の東三河防衛の要所である野田城を攻略しました。しかし信玄の病状が悪化し、帰国するあいだに信玄が病死します。家督を継承した四男・勝頼は遠江を再掌握しましたが、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗退。反信長勢力を打破した信長と、三河・遠江を取り返した家康は、勢力を増していったのです。
まとめ
戦国最強ともいわれる武田氏は、得意の野戦にもちこみ三方ヶ原の戦いで圧勝しました。しかし、このとき家康にとどめをさせなかったことは大きなミスだったかもしれません。この後の合戦で、武田氏の家運は大きく傾いていくことになります。
一方、家康にとってこの戦いは伊賀越えとならぶ人生最大の危機でした。ここで生き抜いたことが、のちの家康天下につながっていったといえるでしょう。
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