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【四国の覇者:長宗我部元親】土佐一国から四国統一を目指した男の一生

【四国の覇者:長宗我部元親】土佐一国から四国統一を目指した男の一生

戦国時代はさまざまな武将が勢力拡大を目指して戦いを繰り広げました。そのなかでも四国地方で名を轟かせたのが、戦国武将・長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)です。織田信長や豊臣秀吉と同じ時代に生きた彼は、多くのピンチを切り抜け四国の覇者として君臨しました。彼の一生はどのようなものだったのでしょうか?
今回は、元親のうまれから土佐統一までの経緯、四国統一からの凋落、豊臣政権下での働き、残された逸話などについてご紹介します。

土佐一国からの勢力拡大

元親はもともと土佐一国の大名でした。その前半生はどのようなものだったのでしょうか?

「姫若子」から「鬼若子」へ

元親は、天文8年(1539)長宗我部国親の長男として岡豊城で誕生しました。永禄3年(1560)22歳と遅咲きながら長浜の戦いで実弟・親貞とともに初陣。色白で大人しかったことから姫若子と呼ばれていた元親でしたが、この戦いでみせた武勇から鬼若子と呼ばれるようになります。続く潮江城の戦いでも戦果を上げ、のちに父が急死すると、長宗我部家の家督を相続しました。

土佐統一し、阿波・讃岐・伊予に侵攻する

龍集寺所蔵の一条兼定の肖像です。

元親は美濃の斎藤氏と姻戚関係を結びながら、土佐国司で公家大名の一条氏とともに土佐豪族・本山氏を攻撃。永禄11年(1568)の本山氏の降伏により土佐中部を平定し、翌年には安芸国虎を滅ぼして土佐東部も平定します。
また一条兼定からの自立をはかり、一条氏の家臣・津野氏を滅ぼしたのちに兼定を追放。兼定の子・内政に娘を嫁がせて傀儡化し、ついに土佐を統一しました。その後は織田信長と同盟を結び、伊予国、阿波国、讃岐国へと侵攻していきます。

四国統一するも凋落へ

快進撃を続け土佐一国から四国統一へと乗り出した元親。しかしその勢いを保つのは困難だったようです。

織田信長との対立

天正8年(1580)信長から「土佐国と阿波南半国のみ領有を認める」として臣従を迫られた元親は、その要求を拒絶し、信長と敵対するようになりました。これにより織田方の四国攻撃軍に攻められ、家臣に見限られて複数の城を奪われるなど状況が悪化してしまいます。そこで元親は、織田氏とのパイプ役で姻戚関係にあった斎藤利三を通して信長への恭順を表明。しかし、この直後に本能寺の変で信長が横死したため、最大のピンチを切り抜けました。この事件は四国攻撃軍の渡海予定日に起こったことから、元親との対立が本能寺の変の原因ではないかともいわれています。

四国統一に成功する

信長死後に再び勢力拡大に乗り出した元親は、阿波を完全に平定します。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは信長の跡を継いだ豊臣秀吉に対抗して柴田勝家と結託。翌年の小牧・長久手の戦いでも、織田信雄や徳川家康らと結んで秀吉と敵対しました。また東予の金子元宅との同盟により伊予国にも侵攻し、西予の豪族らも降伏させ、ついに四国ほぼ全域を統一します。

豊臣秀吉に降伏して臣従

こうして四国での影響力を強めた元親でしたが、天正13年(1585)紀州征伐後の秀吉から伊予・讃岐を返還するよう命じられます。元親は伊予を割譲して和平を結ぼうとしますが、それを拒否した秀吉が羽柴秀長を総大将とする大軍を送り込み合戦に発展しました。秀吉は元親方の城を次々と攻略。これを受けて降伏した元親は、上洛して秀吉に謁見し臣従を誓います。そして、手に入れた阿波・讃岐・伊予を没収され、土佐一国のみを与えられたのです。

豊臣政権下での働きと晩年

積極的に勢力を拡大した元親は、最終的に領土のほとんどを没収されてしまいました。秀吉への降伏後、元親はどのような動きをしたのでしょうか?

嫡男・信親の死と家督継承問題

歌川吉育の『太平記英勇傳 長曽我部弥三郎信親』です。

天正14年(1586)元親は嫡男・信親とともに秀吉の九州征伐に従軍します。この最中、島津家久と豊臣方のあいだで「戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)」が起こり、信親が討死しました。そのために発生した家督継承問題で、元親は次男・香川親和や三男・津野親忠をさしおいて四男・長宗我部盛親に家督を継承することを決定します。元親はこれを断行し、反対した家臣とその一門を粛正しました。

その後も秀吉の戦いに貢献した

元親はその後も秀吉の戦いに参加して貢献しています。天正18年(1590)の小田原征伐や、文禄元年(1592)の文禄・慶長の役で、長宗我部水軍を率いて従軍。元親は秀吉から水軍としての力を期待されていたため、その役割をしっかり果たしていたといえるでしょう。
しかし、慶長3年(1598)の秀吉死去後は政情が不安定になり、その翌年には体調を崩してしまいます。元親は療養のために上洛しましたが、名医にかかるも病は重くなり、最後は遺言を残してこの世を去りました。

元親の人物像がわかる逸話

四国の覇者となった元親は、どのような人物だったのでしょうか?元親にまつわるエピソードをご紹介します。

家臣や家族を思いやる慈悲深い人物

元親は、『元親記』で「律儀第一の人」と評され、そのほかの軍記物でも武勇に優れた慈悲深い名君として描かれています。また『土佐物語』には、なぜ四国の覇者を目指すのかという質問に対し、「家臣に十分な恩賞を与え、家族が安全に暮らすには、土佐だけでは足りないから」と答えたという記載もあります。
彼は下級兵士の意見も聞き入れ、家臣が寝返ったときも人質を殺さずに優遇しました。このような逸話から、器の大きな人物だったといえるでしょう。

秀吉の饅頭を家臣におすそわけ!

天下統一後、秀吉は各地の大名を集めて舟遊びをしました。元親は振る舞われた饅頭を一口食べると、あとは紙に包んでしまいこんだといいます。秀吉が饅頭をどうするのかと問うと、元親は「太閤殿下から頂いたありがたい饅頭なので、持って帰り、家来に分け与えます」と答えました。これを聞いた秀吉は喜び、用意した饅頭をすべて元親に与えたそうです。

信親没後は豹変!?自殺未遂も…

名君とも評された元親ですが、戸次川の戦いで嫡男・信親を失ってからは豹変しました。後継者として期待をかけていた嫡男を失ったことは、元親にとって性格を変えるほど大きな出来事だったのでしょう。このとき元親は、自害しようとして家臣に諫められたといいます。その後は覇気がなくなり、それまでの度量も失ってしまったようです。

「名高き武士」と評された戦国大名

土佐を統一した元親は「土佐の出来人」と呼ばれ、さらには四国をほぼ統一するまでに成長しました。信長は元親を「鳥無き島の蝙蝠」と揶揄しましたが、『甲陽軍鑑』では「名高き武士」と評されています。信長や秀吉との対立がなければ、彼の勢力はさらに大きくなっていたかもしれません。
土佐から四国統一を目指した元親は、最後には土佐一国の領主へと戻りました。四国統一という夢は長くは続きませんでしたが、戦国の世で彼が残した功績は大きいといえるでしょう。

 

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