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【チンギス・ハン】モンゴル帝国初代皇帝の人生と源義経説の真相

【チンギス・ハン】モンゴル帝国初代皇帝の人生と源義経説の真相

チンギス・ハン(チンギス・カン、チンギス・ハーン)は、13世紀にモンゴル高原を支配してモンゴル帝国の初代皇帝となった人物です。日本人の視点では海外の偉人ということになりますが、鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟・源義経と同一人物だという説もあるようです。果たしてその真相とは?

今回は、モンゴル帝国の成立、遠征による諸国征服、チンギス・ハンの死とその後、源義経同一人物説の真相などについてご紹介します。

モンゴル帝国の成立

チンギス・ハンの出自はどのようなものだったのでしょうか?モンゴル帝国成立までの活躍を振り返ります。

モンゴル高原を統一する

1162年、チンギス・ハンはモンゴル部族・ボルジギン氏の首長イェスゲイ(エスガイ)と母・ホエルンのあいだに生まれました。モンゴルの歴史書『元朝秘史』によれば、先祖は「蒼い狼」を父に、「白い牝鹿」を母として生まれたといわれています。

テムジンと名付けられた彼は、若くして父を失ったため、母の手で育てられました。そして、タタール、ケレイトなどの部族を次々と制圧し、1204年にはナイマン王国を討ってモンゴル高原を統一。西域のウイグルを服属させることにも成功します。

全モンゴルのリーダーに選出

クリルタイにより、チンギス・ハンとして即位するテムジン(『集史』より)

1206年、テムジンはクリルタイ(部族長の大集会でモンゴルの最高議決機関)でモンゴル族のリーダーに選出され、それ以降、チンギス・ハンと名乗るようになります。この即位によりモンゴル帝国が成立。チンギス・ハンは従来の血縁的な部族制を千戸制という軍事・行政組織として再編成し、広大なモンゴルを支配しました。

対外遠征による征服

チンギス・ハンの支配力は広範囲にわたり、モンゴル帝国は彼の孫の代までに、現在の中国・ロシア・イランにいたる大帝国に発展したといわれています。彼はどのように諸国を征服していったのでしょうか?

侵略戦争を繰り返す

ホラズム・シャー朝の君主が他界する様子が描かれています。

チンギス・ハンは対外遠征で侵略戦争を繰り返し、諸国を征服していきました。1211年からの対金戦争では、金の都・燕京(現在の北京)を占領。1218年の西遼征服ではモンゴル軍を派遣し、西遼の王位を奪っていたモンゴル高原の遊牧国家・ナイマンを滅ぼしました。これにより西遼に服従していた西ウイグル王国も支配下に入ります。また1219年からの大規模な西方遠征ではホラズム=シャー朝を征服し、1227年には第五次西夏遠征によりモンゴル高原の南に位置する西夏も征服。モンゴル帝国はこのように拡大していったのです。

攻略ルートに見るその狙い

チンギス・ハンは数々の侵略戦争を行いましたが、そのルートを見るとある狙いが読み取れます。彼が征服したナイマンやホラズム=シャー朝は、アジアとヨーロッパを結ぶ陸上交易ルート上に位置していました。また、海に近いホラズム=シャー朝を占領すれば、海上交易も可能となります。チンギス・ハンの積極的な対外遠征は、交易のネットワークを作り上げることが狙いだったと考えられるのです。交易圏の拡大は、彼の死後もその子孫に受け継がれていきました。

モンゴル皇帝の死とその後

大偉業を成し遂げたチンギス・ハンもやがて死を迎えます。その後のモンゴル帝国はどうなったのでしょうか?

秘匿されたチンギス・ハンの死

チンギス・ハンが死去したのは、1226年からの西夏遠征の最中でした。1227年の夏、西夏の皇帝が和睦を求めてきたころ、チンギス・ハンは狩猟中に落馬した傷が悪化して亡くなります。しかし、その死は秘匿され、遺命により西夏の皇帝やその一族、さらには首都・興慶の民までもが殺害されました。チンギス・ハンの遺体は秘密裏に移動させられ、『東方見聞録』によれば、棺を運ぶ隊列を見た者はすべて殺されたといいます。また、埋葬地も重要機密とされました。

なお、2009年にチンギス・ハンの末裔とされる女性の告白により、陵墓の現地調査が行われたようです。2015年には墳墓があるとされるブルカン・カルドゥンが世界遺産となりました。

子供たちによる内紛

1229年のオゴタイの戴冠式(『集史』より)

モンゴル帝国では、チンギス・ハンの男系子孫しか皇帝に即位できないとする原則(チンギス統原理)が広く受け入れられるようになりました。チンギス・ハンには4人の息子がおり、彼の死後は子供たちによる内紛が起こります。

長男のジョチは各遠征で功績を残す優秀な人物でしたが、実子ではないとの噂があり、中央アジア遠征中に死去。次男のチャガタイは気性の荒さから人望がなく、三男オゴタイは大人しく凡庸と思われ、四男で末っ子のトゥルイは父の寵愛を受け実力者と思われていました。

そのため、トゥルイが後継者として選出されると思われましたが、クリルタイの全会一致でトゥルイがオゴタイに家産を譲ります。これは、チャガタイがトゥルイを即位させないよう働きかけたためともいわれています。

しかし、のちにトゥルイの子である孫のフビライが第5代皇帝に就任。彼は2度にわたり日本を攻めました(=元寇)。

源義経との同一人物説とは?

中尊寺所蔵の源義経像です。

チンギス・ハンには、源義経と同一人物であるという説があります。なぜそのような説が生まれたのでしょうか?

ドイツ人医師シーボルトが提唱

この同一人物説は、江戸時代に来日したドイツ人医師シーボルトによって説かれました。その根拠としては、義経が死んだ年以降にチンギス・ハンが歴史に登場していること、チンギス・ハンが得意だった長弓は日本独特の物であること、義経には「九郎義経」、チンギス・ハンには「クロー」の別名があることなどが挙げられます。シーボルトは帰国後に『日本』を刊行し、義経=チンギス・ハンだと帰結。江戸時代の史学界では、林羅山や新井白石らによりこの問題が真剣に議論され、同一人物説は広く受け入れられるようになりました。

現在では否定されている

一世風靡したこの説は、現在では否定されています。両者ともに史料が乏しいことや、2004年のオックスフォード大学の研究者によるDNA解析により、モンゴル帝国時代のチンギス・ハンのもつY染色体が日本人には見られないものであると判明したことから、別人だと考えられるようです。義経は「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉もあるほど悲劇のヒーローとして愛される人物なので、このような説が信じられたのかもしれません。この説は太平洋戦争の時期にも、「チンギス・ハン(=源義経)がかつて大帝国を築いたように、日本も勢力を拡大すべきだ」という政治的プロパガンダとして流行しました。

モンゴルの国家創建の英雄

モンゴルの遊牧民を統一し、一大勢力を形成したチンギス・ハン。時代によっては侵略者と解釈されることもありますが、モンゴル人の英雄となった彼は現在にいたるまで大きな影響を及ぼしています。彼の名は後世にも語り継がれていくことでしょう。

 

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