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【江戸一番の医師:杉田玄白】『解体新書』を翻訳した蘭学の先駆者

【江戸一番の医師:杉田玄白】『解体新書』を翻訳した蘭学の先駆者

江戸時代中期~後期に活躍した医学者で蘭学者の杉田玄白は、日本の医学に大きく貢献しました。彼の功績といえば、オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳し、日本語で書かれた解剖学書『解体新書』を完成させたことでしょう。この当時、西洋医学は蘭方医学として日本に入ってきており、蘭方医だった玄白は蘭学の前進にも寄与しました。

今回は、玄白のうまれから家督継承まで、『解体新書』の翻訳の経緯、その後の活躍と晩年、玄白の人物像などについてご紹介します。

うまれから家督継承まで

玄白はどのような出自だったのでしょうか。うまれから家督継承するまでについて振り返ります。

小浜藩医のもとに生まれる

玄白は、小浜藩医・杉田甫仙の子として江戸の牛込で誕生しました。難産だったため母は出産時に死去しています。小浜藩酒井家の下屋敷で育ったのち、一家で小浜へと転居。その後は父が江戸詰めを命じられるまで小浜で暮らしました。青年期には家業である医学の修行を始め、17歳からは幕府の奥医師・西玄哲のもとで蘭方外科を学びます。また、本郷に開塾していた古学派の儒者・宮瀬竜門に漢学も学びました。

家督と侍医の職を継承する

宝暦2年(1752)玄白は小浜藩医として上屋敷に勤務し、宝暦7年(1757)には江戸・日本橋で町医者として開業しました。この頃には平賀源内や中川淳庵との交流も始まっていたようです。

それ以前の宝暦4年(1754)には山脇東洋が国内初の人体解剖を行い、日本の医学界に波紋が広がります。この出来事は、のちに玄白が『解体新書』を翻訳するキッカケとなりました。

やがて藩の奥医師(医官)となった玄白は、オランダ商館長一行が江戸へ参府した際、彼らが滞在する長崎屋を訪問。このときオランダ語の難しさを諭され、習得を断念したといわれています。その後、明和6年(1769)に父が死去。玄白は家督と侍医の職を継承しました。

解体新書の翻訳に着手

玄白らによる解体新書(国立国会図書館デジタルコレクションより)

医師として活躍していた玄白は『ターヘル・アナトミア』と出合い、大偉業への一歩を踏み出します。しかし、それは簡単なものではありませんでした。

オランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』との出合い

明和8年(1771)玄白はオランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を見てその精密な解剖図に驚きます。そこに描かれた骨格や内臓は、今まで学んだ「五臓六腑(ごぞうろっぷ)」の図とは異なっていたため、本物の人体と比較したいという気持ちが膨らみました。玄白は藩に相談しこの本を購入。その後、前野良沢や淳庵らとともに死体解剖に立ち会う機会を得て、『ターヘル・アナトミア』の解剖図の正確さに感嘆します。このとき玄白は、「基本的な人体の中も知らずに医者をしていたとは…」と感じたといいます。こうして玄白は、この本を翻訳して世の中に役立てようと思い立ったのです。

前野良沢らと翻訳を手掛ける

『医家先哲肖像集』より、前野良沢の像です。

玄白は、良沢・淳庵らとともに『ターヘル・アナトミア』を和訳しました。当時は満足な辞書もなかったため、簡単な一文を翻訳するにも丸一日かかったといいます。「軟骨」「神経」といった言葉は、このとき玄白らによってつくられました。彼らは月に7回ほど集まって勉強し、動物を解剖したり通訳者に聞いたりするなどしたそうです。そして3年の月日を費やし、ようやく翻訳を完成させました。11回も書き直されたといわれる翻訳は、安永3年(1774)に『解体新書』5巻(図1巻・図説4巻)として刊行。この快挙はオランダ医学書翻訳の先駆けとなり、日本の医学史上に大きな影響を及ぼしました。

その後の活躍と晩年

大偉業を成し遂げた玄白は、その後どのように過ごしたのでしょうか?その活躍と晩年についてご紹介します。

医学塾・天真楼を開業

『解体新書』が出版されたあと、西洋医学をめざす若者たちが教えを乞うべく玄白のもとに集まりました。玄白は「天真楼」という医学塾を開き、多くの弟子を抱えるようになります。主家への勤務や患者の診療など医者としての仕事も続けていた玄白ですが、医学を論じたり政治・社会問題を論評したりと、多数の門人の育成にも尽力。また、蘭書を収集して門人たちに提供するなど蘭学の発展にも貢献しました。

『蘭学事始』が公刊される

玄白が眠る、東京都港区の栄閑院

83歳のころ、玄白は『蘭学事始(らんがくことはじめ)』という手記を弟子の大槻玄沢に送ります。これは翻訳業の苦労を回想したもので、自分の死により蘭学の草創期を知る者がいなくなることを惜しんで書き残したものでした。この手記は当時写本のみで伝わりましたが、幕末にこれを読んで感動した福沢諭吉が学問の継承や保存を目的に出版。その後は広く一般に読まれるようになりました。

かなりの高齢まで医者を続け、殿様から貧民まで平等に治療したといわれる玄白ですが、文化14年(1817)に病没。現在の東京都港区愛宕の栄閑院に葬られました。その墓は東京都史跡にも指定されています。

杉田玄白の人物像とは?

玄白はどのような人物だったのでしょうか?ここでは人物像がわかるエピソードをご紹介します。

江戸一番と評される医師

玄白は外科に優れた医師だったといわれています。毎日多くの患者が訪れ、毎年1000人あまり療治していたといわれる玄白は、患者からの信頼も厚い医師だったといえるでしょう。儒学者の柴野栗山は、「当時、江戸一番の上手だった」と玄白について書き記しています。

多趣味で勉強熱心だった

玄白は医学だけでなく、連歌、詩、俳諧なども学んでいました。江戸の洋風画家とも交流があり、画の技術も高かったといわれています。解剖書の翻訳という大偉業を成し遂げて年老いたあと、玄白はますます活動範囲を広げ、漢学や国学などさまざまな分野の学者と交流して学問を勉強したようです。

「医食同源」と「養生七不可」を説く

杉田玄白『養生七不可』(国立国会図書館・近代デジタルライブラリより)

玄白は、病気を治す薬と食べ物は本来根源を同じくするもので、食事に注意することが病気予防の最善策であるという「医食同源」の考えや、健康長寿のための心得である「養生七不可」などの理念を説きました。玄白のこの思想は現代にも根付いており、食育などの考えにも通じています。江戸時代にこの思想を説いた玄白は、先進的な考えの持ち主だったといえるかもしれません。

日本医学と蘭学を前進させた

『解体新書』の翻訳により日本の医学は大きく発展しました。同時にオランダ語の翻訳技術が進み、蘭学を学ぶ人が増え、全国の寺小屋は学問の場として発展したといわれています。このような背景から、玄白は蘭学の先駆者ともいわれているようです。

玄白が翻訳した言葉のなかには、現在でも使われている言葉がたくさんあります。歴史に名を残した玄白ですが、そうした言葉を知っていくと、意外と身近に感じられるのではないでしょうか?

 

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