2021年の大河ドラマ『青天を衝け』では、幕末から明治にかけて活躍した渋沢栄一が描かれます。この当時はさまざまな人物が活躍しましたが、山内容堂(豊信)も新時代の幕開けに一役買った人物の一人です。
容堂は大政奉還の建白をしたことで知られており、幕末四賢侯(しけんこう)の一人にも数えられています。しかしその一方で、酒による失態エピソードが伝わるなど、評価が二分する人物だったようです。
今回は、容堂の藩主就任から幕政参画までの経緯や、大政奉還と明治維新への関わりなどについてご紹介します。
藩主就任と幕政参画
もともとは一藩主という立場だった容堂。しかしこの地位も、偶然手に入れたものだったようです。
土佐藩15代藩主に就任
容堂は、土佐藩の南邸山内家当主・山内豊著の長男として誕生しました。生家は石高1500石の藩主家の分家で、連枝五家の中で一番下の序列だったため、その身分から江戸屋敷ではなく高知城下で育ったようです。
13代藩主・山内豊熈の死後、その弟・豊惇が家督継承するもわずか12日で急死。豊惇の弟がまだ幼かったことから容堂に白羽の矢が立ちました。そして嘉永元年(1848)12月、容堂が土佐藩15代藩主に就任。この就任には、候姫(豊熈の妻、智鏡院)の格別の推挙と幕閣への働きかけがあったといわれています。
藩政改革を断行する
藩主となった容堂は、旧臣や門閥による従来の藩政を嫌い、革新派の中心人物だった吉田東洋を起用します。嘉永6年(1853)新設した「仕置役(参政職)」に東洋を任命し、家老の意見をものともせず藩政改革を断行。その内容は、西洋軍備の採用や財政改革、身分制度改革、文武官設立など多岐にわたりました。翌年、東洋は山内家の姻戚に当たる旗本といさかいを起こし謹慎となりましたが、安政4年(1857)に再登用されます。そして、のちに藩の参政として活躍する後藤象二郎や福岡孝弟を起用したのです。
幕政改革と将軍継嗣問題
このころの容堂は、福井藩主の松平春嶽、宇和島藩主の伊達宗城、薩摩藩主の島津斉彬と交流を持ち「幕末の四賢侯」と呼ばれました。容堂は彼らとともに幕政改革を訴え、時の老中・阿部正弘と対立します。正弘の死後は大老・井伊直弼と将軍継嗣問題で対立。容堂らは病弱な13代将軍・徳川家定の継承者として一橋慶喜を推しましたが、井伊は紀州藩主・徳川慶福を次期将軍に推し、大老の地位を利用して安政の大獄で政敵を排除しました。こうして慶福が14代将軍・家茂となると、容堂は憤慨して幕府に隠居を願い出て前藩主の弟・豊範に藩主の座を譲ります。そして同年、幕府から謹慎の命が下ったのです。
謹慎と大政奉還
容堂の謹慎中にも土佐藩は活発な動きを見せます。そして幕府は、大政奉還の流れに向かうのでした。
土佐勤王党の台頭
容堂の謹慎中、土佐藩では武市瑞山(半平太)を首領とする土佐勤王党のクーデターが勃発しました。彼らが掲げるのは尊王攘夷で、桜田門外の変が起きて以降、その思想は全国に普及したといいます。容堂は四賢侯に共通する公武合体思想でしたが、勤皇志士を弾圧しながら朝廷にも奉仕したため、その一貫性のなさが政局を混乱させました。のちに政敵となる西郷隆盛もこれには苦言を呈しています。土佐勤王党のクーデターでは公武合体派の東洋が暗殺され、瑞山は門閥家老らと手を組み藩政も掌握しました。
容堂の藩政が復活する
文久3年(1863)京都で八月十八日の政変が起こり、佐幕派が猛威を振るうようになります。そんな中、謹慎を解かれた容堂は土佐に戻って藩政を掌握し、土佐勤王党の弾圧に乗り出します。党員は捕縛・投獄または死罪となり、首領の瑞山は切腹を命じられました。その後、容堂は朝廷から参預に任命され国政の諮問機関である参預会議に参加しますが、病欠が続いたため短期間で崩壊。そして慶応2年(1866)東洋暗殺の直前に脱藩した坂本龍馬、中岡慎太郎、土方久元らの仲介により薩長同盟が成立し、明治維新に向けて時代が大きく動き出しました。
15代将軍・徳川慶喜への建白
慶応3年(1867)5月、容堂は将軍や摂政に参考意見を進言する機関として設置された四侯会議に参加しますが、薩摩藩の主導を嫌って欠席し続け、この会議も短い期間で崩壊しました。同月、土佐藩と薩摩藩は武力討幕を議論し薩土密約を締結。この報告を受けた容堂は銃300挺の購入を許可します。その後、龍馬・後藤らの働きにより大久保利通・西郷らと大政奉還による王政復古を目標に薩土盟約を締結しますが、早々に瓦解し土佐藩は討幕路線になりました。後藤は龍馬から聞いた「船中八策」(新国家体制の基本方針。大政奉還はその一環)を自分の案として容堂に進言し、これを容堂が慶喜に建白。こうして慶喜は朝廷に政権を返還する運びとなったのです。
明治維新と新政府樹立
容堂の建白により大政奉還が実現し、世は新しい時代を迎えます。その後の容堂はどのように過ごしたのでしょうか?
泥酔状態で会議に参加!?
慶応3年(1868)12月、容堂は薩摩・尾張・越前・芸州の代表が集まる小御所会議に遅刻したうえ泥酔状態で参加します。そして、王政復古の大号令を認めていたにもかかわらず、「これは岩倉具視ら公卿の陰謀であり、功労者の慶喜がこの場にいないのは不当だ」と批判しました。岩倉は容堂を叱責したものの、もちろん泥酔状態の容堂は返答できません。結局、容堂は無視され、討幕強行派のペースで会議は進んでいきました。
土佐藩兵を送るも…
慶応4年(1868)1月、戊辰戦争の初戦となる鳥羽・伏見の戦いが勃発します。容堂はこの戦いに土佐藩兵を約100名送り出しましたが、藩兵には戦わないように強く指示しました。しかし、土佐藩兵らはその制止を振りきり、薩土密約に基づいて自発的に官軍側として戦います。また、数日後に西郷から密書を受け取った乾退助(後の板垣退助)も、薩土密約をもとに隊を率いて上洛。思惑通りにいかなかったものの、このとき容堂は乾らに自愛するよう伝えたそうです。
酒と女と詩…豪奢な晩年
戊辰戦争が終わり、日本は明治維新を迎えます。容堂は新政府で内国事務総裁に就任しましたが、かつての家臣や領民といった身分の低い者と同列に扱われることを嫌がり、明治2年(1869)には辞職しました。その後、容堂は橋場(東京都台東区)の別邸で多くの妾を囲い、酒と女と作詩の日々に明け暮れます。連日の豪遊で家が傾きかけたものの、「大名が倒産した例はない」といって聞かなかったそうです。そんな豪奢な晩年を送った容堂ですが、明治5年(1872)飲酒による脳出血で死去。墓所は、土佐藩の下屋敷があった東京都品川区の大井公園にあります。
自らを「鯨海酔侯」と称した
容堂は幕末の四賢侯として評価される一方、時流にのってたびたび意見を変えたことから、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されました。容堂自身も自嘲して「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称していたほどです。龍馬も苦言を呈したように容堂は評価の割れる人物ですが、大政奉還の建白など明治維新に大きな影響を与えたといえるでしょう。