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【赤壁の戦い】『正史』と『三国志演義』は違う?概要と名シーンを紹介!

赤壁を前にする曹操(そうそう)です。

中国後漢末期、曹操軍と孫権・劉備連合軍のあいだで戦いがおこりました。長江の赤壁(現在の湖北省咸寧市赤壁市)で行われたこの「赤壁の戦い」は、三国志における最大の戦いといっても過言ではありません。しかし、『正史』と『三国志演義』とでは違いがあるようです。
今回は、赤壁の戦いの背景や経緯、その後の影響、『三国志演義』での名シーンなどについてご紹介します。

戦いの背景

赤壁の戦いはなぜ起こったのでしょうか?戦いの背景について振り返ります。

宦渡の戦いで袁紹を倒した曹操

この当時、曹操は宦渡の戦いで袁紹を破り、中国の北半分を平定するほど勢力を拡大していました。その勢いは留まることを知らず、次には劉表・劉琮が治める荊州も入手します。これにより荊州の客将だった劉備らは荊州にいることができなくなり、配下の兵や劉備を慕う民を連れて南下しました。道中で曹操軍の追撃を受けたものの、張飛や趙雲の働きもあり無事に逃亡に成功します。一方、孫権はまだ巨大勢力ではなかったものの、唯一曹操に敵対する勢力でした。中国統一を目指す曹操は、孫権の治める呉を狙い始めていたのです。

諸葛亮の献策

明の画家・戴進によって描かれた「三顧の礼」

劉備は三顧の礼で諸葛亮(諸葛孔明)を迎え、天下三分の計を献策されます。これに従い、諸葛亮は曹操と敵対していた孫権にともに戦うよう同盟を持ち掛けました。この頃、呉軍では交戦派と降伏派が対立し、降伏派は献帝を擁する曹操に逆らえば逆賊になると危惧していました。反する交戦派は、曹操軍は長い遠征で疲弊しているうえ戦場となる長江では強い水軍をもつ呉軍が有利だと主張。交戦派には歴代当主に仕えた周瑜や魯粛がおり、最終的に孫権と劉備の同盟軍が成立します。諸葛亮の策は、孫権と手を組んで曹操の勢力を削ぎ、天下を三分割してその一つの主となったのちに曹操を打倒すれば、劉備が目指す漢王朝を再興できるというものでした。

赤壁の戦いの経緯

孫権・劉備連合軍はついに曹操軍と衝突します。その結果は曹操軍にとって意外なものでした。

曹操軍20万人を襲ったものは…

南下してきた曹操軍は20万人の大軍で、孫権・劉備連合軍はわずか5万人という劣勢でした。曹操軍は赤壁の対岸である烏林に布陣し、両者は長江を挟んでにらみ合います。曹操軍は周瑜らが予想したように水軍戦に不慣れでしたが、じつは孫権の勢力圏である揚州攻略のために水軍訓練を数年重ねていました。ところが、それとは別の要因で曹操軍は打撃を受けたのです。それは、長い遠征で疲労がたまっていた兵士達に蔓延した疫病でした。これにより曹操軍は瓦解し敗走します。

黄蓋の火計で一網打尽に!

清時代の書物に描かれた黄蓋(こうがい)です。

長江北方へ敗走する敵軍を見た孫権軍の武将・黄蓋は、曹操軍の船が縄で繋がれていることから火計で一網打尽にできると考えました。黄蓋は曹操に降伏するという偽の書状を送り、枯れ木や草を積んで油を注いだ船とともに出発します。投降するふりをして曹操軍に接近した黄蓋は、敵の軍船近くで船に着火し、頃合いを見て小船に避難。火に包まれた船はそのまま曹操軍の船団へと突っ込み、連結された船に火が燃え移りました。さらに強風が吹くと、陸上にあった曹操の軍営地も炎に焼かれたのです。

そして三国時代へ

赤壁の戦い後、諸葛亮の思惑通り三国の分立へと向かいます。曹操、孫権、劉備はどのように動いたのでしょうか?

魏の侵攻が停滞した

赤壁の戦いで大量の兵力を失ったことから曹操の南方侵攻は停滞します。戦力を取り戻すため、しばらくは領地経営に集中せざるを得ませんでしたが、それでも依然として最大の勢力を誇り続けていました。一方、この戦いに勝利した孫権は、荊州の長江沿いに勢力を伸ばすことに成功します。ただし、赤壁の戦いで一番大きな成果を得たのは劉備だったようです。

荊州の支配者となった劉備

劉備は赤壁の戦い直後に荊州南部の4郡を奪取し、周囲の推挙もあって荊州の支配者となりました。その後、益州の攻略にも乗り出し建安26年(221)に蜀を建国。こうして魏・呉・蜀による三国時代に突入します。荊州については領有権を巡って孫権と関係が悪化したため、同盟を組んで魏に対抗する「天下三分の計」が頓挫し、孫権と曹操が手を組む事態に。彼らとの戦いで関羽を失った劉備は、のちに弔い合戦として夷陵の戦いを繰り広げました。なお、この戦いが起こる前に、部下による殺害で張飛も命を落としています。

『三国志演義』での名シーンとは?

『三国志正史』では赤壁の戦いはほとんど描かれていません。しかし、後年に書かれた小説『三国志演義』には、史実に基づいた創作が多く含まれています。ここではその名場面をいくつかご紹介します。

3日で集めた10万本の矢

劉備と組んで曹操と戦うにあたり、孫権軍の周瑜は10日以内に10万本の矢を集めるよう諸葛亮に要求しました。この難題は諸葛亮の腕を試すもので、成功しなければ処刑するつもりだったのです。しかし、諸葛亮はわずか3日でこれを完遂。その方法は、霧の多い日に藁人形を積んだ船で曹操軍に近づき、敵襲だと勘違いした曹操軍から放たれた矢をごっそり拝借するというものでした。こうして諸葛亮は難なく10万本を上回る矢を入手したのです。

連環の計で追い込んだ

周瑜は龐統(ほうとう)を曹操軍に潜入させると、「船と船を鎖で繋げば、船酔いもせず戦闘しやすくなる」と曹操軍の兵士たちに助言させました。曹操軍は水軍の訓練をしていたものの船には不慣れで、水上戦が多い孫権軍と比べればその練度は天地の差。そのため、船と船を鎖で繋ぐ『連環の計』は最善策だと考えられたのです。しかしこれは、火計が成功したとき船同士を延焼しやすく逃げられないようにするための策だったのです。

祈祷で神風が吹いた!?

台北市・國立故宮博物院所蔵の、諸葛亮の肖像画です。

赤壁の戦いにおいて、火計を成功させるには南東の風が必要でした。しかし、このときの風向きは土地柄や季節から考えて北西風だったようです。もし火計が成功しても、このままでは劉備・孫権軍が脅かされるだけになってしまいます。そこで諸葛亮は、祈祷で南東の風を呼ぶことを提案します。天に祈りを捧げた彼は、見事に逆風の南東の風を呼びこみ、火計を成功に導いたのでした。

三国志を代表する戦い

赤壁の戦いによって劉備・孫権・曹操による天下三分の形勢が成立しました。ここでの敗北が原因で、曹操の歩みは10年遅れたともいわれています。この戦いの勝利により蜀が建国されたことを考えると、この赤壁の戦いは、三国志にとって欠かせない戦いだったといえるでしょう。

 

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