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【ペリーは首里城にも訪れていた!】琉球上陸に始まった黒船ショック

現在の沖縄市街地の中心、那覇市。町の西側には大海へつながる泊(とまり)港があり、穏やかな海が横たわっている。

泊港のそばに、十字架が立ち並ぶ一角がある。外国人墓地。ここには中国人、アメリカ人をはじめ6ヶ国、計22名が眠るそうだ。中には長い航海のさなかに病死したイギリス人水兵や、アメリカの船に同乗していた水兵も含まれている。そう、ペリーの船に乗っていた水兵である。

ペルリ(ペリー)上陸の碑

それにちなんだかたちで、墓地の一角に一基の大きな石碑がある。「一八五三年六月六日 ペルリ提督上陸之地」と刻まれたこの碑は、墓地の目印にもなっている。

“Prosperity to the Lew Chewans, and may they and the Americans always be friends.” (琉球人の繁栄を祈り、かつ琉球人とアメリカ人とが常に友人たらんことを望む)と、首里城でペリーが琉球王に述べた言葉が彫られている。

170年ほど前、マシュー・ペリーがこのあたりに上陸し、琉球ひいては日本開国への第一歩を刻んだ地なのである。

今回は、ペリーの一行が著した『日本遠征記』『日本遠征随行記』などの記述をもとに、その経過をみていくとしよう(日付は文献に基づき、西暦/新暦で統一する)。

琉球は西暦1429年に成立し、450年間もの長期にわたって栄えた王国だった。日本の江戸時代が265年、中国の統一王朝では最長の「唐」ですら289年。「漢」も前漢と後漢の両方をあわせても393年である。そう考えれば、いかに長く続いた王国であったかが分かるだろう。

マシュー・カルブレイス・ペリー(1794~1858)

蒸気船に乗ったペリーが来航したのは、その成立から420年ほど経ったころ。日本開国のきっかけとなった欧米の列強国の外圧が、日本よりも一足先に琉球に迫ったのである。

ペリー艦隊は、日本来航前の1ヶ月半ほど前にあたる1853年5月23日、寄港地であった上海を出発。3日後の26日に琉球の那覇に入港した。目的としては、この琉球を日本開国の「補給拠点」とするためである。もしも、沖縄が要求を拒否した場合は武力制圧も辞さず、植民地にさえする思惑もあったようである。

上陸したペリー一行は、武装して付近を制圧。駆け付けた琉球の役人に対し、首府・首里城への訪問を強く要求した。王城へ軍隊を入れ、武力をちらつかせて交渉を有利に運ぶためであることは明白だった。ひとまずペリーらを出迎えた琉球の摂政は、首里城訪問を拒否するが、ペリー一行は、なかば強引に首里城への表敬訪問を予告。それは上陸から10日の6月6日に決定された。冒頭の碑に刻まれた日付である。

ペリーの随行員の画家が描いた首里城「守礼門」

迎えた6日当日、ペリー以下200名にも及ぶ士官たちが首里城をめざして行進。「琉球の民衆は道路の両側にむらがって、そのきらびやかで珍しい行列を見つめていた」と、『日本遠征記』にはある。

これに対し、琉球王朝も、やむなく王宮の城門を開いて迎えるしかなかった。ただし、琉球の役人らがペリーらを通したのは、王のいる正殿ではなく北殿。ここは迎賓館としても使われていて、中国からの冊封使が来た際にはここで酒や茶をふるまう習わしだった。

2019年に火災で焼失する前の首里城・北殿(1992年復元)

正殿には布で覆いをかけ、琉球王の尚泰(しょうたい)も姿を見せなかった。役人たちが茶と菓子を出し、形式通りの儀式を行うことでその場を切り抜けようとしたのである。その後、琉球国の摂政は、とりあえず城下にある自分の邸宅にペリーの一行を招き、宴をもうけた。

「各テーブルの隅々に箸がおいてあり、真ん中にはサキ(酒)を満たした土製のポットが置かれ、(中略)多分、豚だったろう。けれども、紅色に色付けして薄く刻んだゆで卵、巻いて油で揚げた魚、冷たい焼き魚の切り身、豚の肝のスライス、砂糖菓子、キュウリ、からし、塩漬けしたハツカダイコンの葉、こまぎれの赤身の豚肉を揚げたものなどは、西洋人にもよく分かる料理だった。最初にお茶が出され、次にフランスのリキュールの味がする酒(泡盛)が、非常に小さな杯に注がれた」(『日本遠征記』)

と、かなり事細かにその料理の内容などを書いている。「総じて味がよく、とてもおいしいもので、中国料理より勝っていた」とも記しているように、アメリカ人たちは琉球人のもてなしを気に入ったようだ。

随行員が描いた琉球の摂政

このように書けば、琉球はアメリカを「歓待」したようであるが、実際には「その場しのぎの応対」であり、早く立ち去ってほしいというのが本心だった。

実際、ペリー艦隊の水兵のなかにはマナーが悪い者もいて、滞在中に通行人に発砲したり、琉球の女性に乱暴した者もいた。それが原因で琉球人らが水兵を殺害する事件も起きた。冒頭の墓地に葬られたアメリカ水兵のなかには彼(ウィリアム・ボード)も含まれている。このような問題に限らない。ペリーは当初から武力外交で臨んできたのであり、琉球の植民地化も視野に入れていた。それが分かっていたから琉球は交渉拒否の対応をとり続けたのである。

ペリー艦隊の水兵も埋葬されている泊の外人墓地

ひとまず、王宮(首里城)を訪問するという目的を達したペリーは、3日後の6月9日、琉球を離れて小笠原諸島を調査したのち、ふたたび琉球へ戻ってきた。

その後の6月28日には、ペリーの船内で、今度はアメリカ側が琉球の役人を洋食や酒でもてなしている。ウミガメのスープや山羊の肉料理などのほか、ワイン、シェリー酒、ウイスキー、ジンなど、世界各地の酒が、琉球人にふるまわれたようである。

そして7月2日、ペリー艦隊は琉球に一部の船を残し、いよいよ日本の浦賀へと向かう。浦賀湾へ乗り入れ、その沿岸の人々をおおいに驚かせたのは6日後の7月8日(日本の旧暦6月3日)のことだ。

ペリーは日本でも強引に要求を押し通し、大統領の親書を江戸幕府に渡し、再度来航すると予告して、いったん浦賀を離れた。その帰路も、翌年2月の再来航のおりも、ペリーは琉球を寄港地に使用し、炭や水などの補給を行なっている。

ペリー艦隊は琉球政府の思惑など無視し、計5回にわたって琉球を訪れ、補給基地として利用した。それはアメリカという国家の狙いでもあった。東アジアのなかで琉球は地理的に重要であり、是が非でも拠点のひとつとして確保したかったのだろう。なんとか関わりを最小限にとどめたかった琉球だが、結局は押し切られてしまった格好となる。

大型フェリーが停泊する現在の泊港

翌1854年、江戸幕府がペリーの要求をある程度受け入れ「日米和親条約」が締結されたのを受け、琉球とアメリカも「琉米修好条約」を結んだ。これを契機に琉球はフランスとの間に琉仏修好条約(1855)を、オランダとの間に琉蘭修好条約(1859)を締結している。否応なしに、琉球も欧米列強との国交を結び、国際社会の舞台に上がったのであった。

それから10数年後、日本は明治維新を迎え、江戸時代が終わった。それにともなって琉球王朝にも終焉が近づく。1879年(明治12年)、明治政府による琉球処分で琉球王は東京へと移され、長らく栄えた王国は消滅、沖縄県が誕生するのである。

江戸幕府を倒した新政府軍の中心でもあった薩摩藩は当時、琉球を支配下に置いていた。しかし、兵を置いて軍事支配していたわけではなく、間接的な支配だった。そうした事情から、薩摩藩は琉球を武力開国しようとしたペリー艦隊の様子を肌で見聞しており、近代装備の重要性にいち早く気づいていた。

ペリーの琉球来航による軍事的圧力を目の当たりにした薩摩藩の危機感が、その後の明治維新や富国強兵策へとつながったことは間違いなさそうである。

文・上永哲矢

 

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