幕末維新の志士や事件の知られざる真実に迫る連載「風雲!幕末維新伝」。第22回のテーマは「新選組の局中法度」です。
現存していない「局中法度」
新選組には、「局中法度」と呼ばれる隊規がありました。それに違反した者はすべて切腹に処せられるという、日本史上に例のないほどの厳しい掟でした。
その条文は、子母澤寛の『新選組始末記』(昭和3年刊)によれば次のようなものです。
「間もなく、近藤の主張により「局中法度書」が掲示された。
一、士道ニ背キ間敷事
一、局ヲ脱スルヲ不許
一、勝手ニ金策致不許
一、勝手に訴訟取扱不許
一、私ノ闘争ヲ不許
右条々相背候者切腹申付ベク候也」
しかしこの法度は、古文書では現存しておらず、上記『新選組始末記』の記述が唯一の記録になります。そのため、信憑性の点では問題が残るといわざるをえません。
一方、隊士永倉新八が大正2年に語った談話をまとめた『新撰組顛末記』にこのような記載があります。
「そこで芹沢は近藤、新見のふたりとともに禁令をさだめた。それは第一士道をそむくこと、第二局を脱すること、第三かってに金策をいたすこと、第四かってに訴訟をとりあつかうこと、この四箇条をそむくときは切腹をもうしつくることーー」
一見してわかるように、条文そのものはよく似ています。ということは、永倉談話のほうが年代的に古いため、それを参考に子母澤寛が文言を整理して「局中法度書」を創った可能性が高いといえるのです。
ただしその場合、永倉談話のほうには四か条しか記されていないこと、それに「局中法度」という名称が使われていないことから、私闘を禁ずる第五条、および局中法度の名称は子母澤寛の創作と考えることができます。
すなわち新選組の隊規は、実は永倉のいう四か条であり、名称は不明、もしくは固有名詞らしくはありませんが、「禁令」であったとみるべきでしょう。
隊規はいつ作られたか
新選組の隊規については、いつ作られたかの点でも研究者の間で見解が分かれています。
上記2点の史料によれば、新選組の結成当初に隊規も制定されたことになっていますが、彼らがのちに屯所を置いた西本願寺の寺侍・西村兼文が著した「壬生浪士始末記」には、慶応元年(1865)5月頃のこととしてこう記されています。
「さてまた新撰組さらに規律を設立し、隊伍を編成す」
ここに「規律を設立し」と明記されていることから、隊規は慶応元年に制定されたとする見方があるのです。「壬生浪士始末記」は信頼度の高い史料であり、無視できない記述であることは間違いありません。
しかし、実際には慶応元年以前にも隊規の存在を示す史料はいくつか存在します。まず新選組結成間もない文久3年(1863)6月2日の風聞記録に、このような記述があります。
「いったん組入りいたしものは破談あいならず、絶えて離れ候わば、仲間より切害いたし候定めのよし」(「彗星夢雑誌」)
「絶えて離れ候わば」というのは、隊を離れて長期間帰隊しなければという意味です。表現は少し違うものの、脱走を禁ずる隊規の条項と同じ意味合いの内容が記されているのです。
次に、翌元治元年(1864)6月には、やはり風聞記録にこのように記載されています。
「壬生浪士掟は、出奔せしものは見付け次第同志にて討ち果たし申すべくとの定めの趣」(「時勢叢談」)
出奔(脱走)した者は発見ししだい同志の手で討ち果たすというのですから、これも脱走禁止を意味する掟ということになります。討ち果たすことと切腹させることでは多少の違いはありますが、そもそも隊外の者が聞き書きした風聞記録ですから、その程度の誤差はあって当然というべきでしょう。
これらの記録を見ていくと、慶応元年以前に少なくとも脱走を禁ずる隊規が存在したことは間違いありません。そして隊規が作られていた以上、ほかの3か条も同時に立てられていたとみるのが自然ではないでしょうか。
「壬生浪士始末記」による慶応元年説も捨てがたいものがありますが、私は隊規は文久3年にはすでに制定されていたと考えています。
隊規違反で処断された隊士たち
では、隊規によって処断された隊士たちは実際には何人ほどいたのでしょうか。新選組では内部抗争が絶えずおこなわれており、どこまでが隊規違反者か判断に難しいケースもありますが、はっきりと隊規違反として処分された者を掲げてみましょう。
- 文久3年12月27日 野口健司 切腹
- 元治元年9月6日 葛山武八郎 切腹
- 慶応元年2月23日 山南敬助 切腹
- 慶応元年6月21日 施山多喜人 切腹
- 慶応元年6月21日 石川三郎 切腹
- 慶応元年7月25日 佐野牧太 斬殺
- 慶応2年2月12日 河合耆三郎 切腹
- 慶応2年6月23日 柴田彦三郎 切腹
- 慶応3年1月10日 田内知 切腹
- 慶応3年4月15日 田中寅三 切腹
以上の10人です。このうち野口健司、葛山武八郎、施山多喜人、石川三郎、河合耆三郎、田内知が「士道不覚悟」、山南敬助、柴田彦三郎、田中寅三が「脱走」、佐野牧太が「金策」の罪によるものと考えられています。
佐野のみが切腹でなくて斬殺となっているのは、「壬生浪士始末記」に「隊士佐野牧太郎、市中富商に強談以て金調したる事露顕して、斬罪に所す」とあるのによっています。新選組の隊規では違反者はすべて切腹となっていますから、佐野の場合は例外ということになりますが、本人が抵抗して従わなかったなどの事情があったものと考えられます。
また、慶応元年以前に野口健司、葛山武八郎の二人が切腹していますが、彼らの罪状が「士道不覚悟」であることが注目されます。前述したように、史料的にはこの時期は「脱走」を禁ずる隊規しか確認できていませんでしたが、それ以外の条項もあったことが証明される形になったのです。
やはり隊規が、新選組草創期の文久3年から制定されていたことは間違いないでしょう。
なお、隊規違反による死者が上記の10人のみというのは、切腹者が相次いだ新選組のイメージとはやや違っているようにも思えます。しかしそれは、明確に判明している隊規違反者に限って掲げた結果であって、隊規違反と推定されるが断定できない者、あるいは隊規によらないで粛清された者を含めると、その数は40人を数えます。
京都での5年間で、敵と戦って死んだ隊士はわずか6人しかいませんでした。それに対して味方に殺された者が40人というのは、いささかやり過ぎの感が否めません。逆にいえば、それほど厳しい隊内統制があったからこそ、新選組は最強の戦闘集団であり続けることができたといえるのでしょう。
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