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【豊臣秀頼の母:淀殿(茶々)】豊臣家の存亡を背負った過酷すぎる一生

【豊臣秀頼の母:淀殿(茶々)】豊臣家の存亡を背負った過酷すぎる一生

豊臣秀吉の側室となり、継承者・豊臣秀頼を産んだ淀殿。彼女は最後まで豊臣家のために尽くし、豊臣政権のシンボルともいえる大坂城でこの世を去りました。しかし、一方では悪女としても名が知られています。日本史上に名を残した淀殿は、どのような人生を歩んだ女性だったのでしょうか?
今回は、淀殿の過酷な幼少期、政略結婚と出産、豊臣政権の分裂、関ヶ原の戦いと大坂の陣、淀殿にまつわる逸話などについてご紹介します。

 

過酷すぎる幼少期

淀殿の幼少期は過酷なものでした。彼女のうまれから結婚するまでについて振り返ります。

浅井長政と織田信長の対立

高野山持明院所蔵の浅井長政像です。

淀殿は、近江の小谷城で父・浅井長政と母・お市の方(織田信長の妹)のあいだに誕生しました。浅井三姉妹の長女で、名前は茶々。長政と信長は同盟関係にありましたが、信長が越前・朝倉義景を攻めた姉川の戦いをきっかけに浅井家と織田家の関係は悪化していきます。

天正元年(1573)、小谷城の戦いで信長に敗れた父が自害すると、淀殿は母や妹とともに救出されました。その後は織田信包または織田信次に預けられ、安濃津城か清洲城、または守山城で過ごしたといわれています。このとき信長は、お市の方や三姉妹を気にかけ厚待遇したそうです。

柴田勝家とお市の方の自害

天正10年(1582)本能寺の変で信長が討たれると、お市の方は織田家筆頭家老・柴田勝家と再婚しました。淀殿は妹達とともに越前国の北の庄城に移りますが、やがて勝家と豊臣秀吉が対立。平和な暮らしも束の間で、天正11年(1583)には賤ヶ岳の戦いが起こります。

この戦いに敗れた勝家はお市の方とともに自害し、残された三姉妹は秀吉の保護を受けることになりました。

政略結婚と出産

信長の跡を継いで天下人となった秀吉。淀殿はそんな秀吉の側室となり、豊臣家の存続に貢献します。

仇敵・豊臣秀吉に嫁いだ淀殿

三姉妹はそれぞれ別の武将に嫁がされ、淀殿は義父の仇敵であり30歳以上も年上だった秀吉の側室になりました。秀吉はお市の方に憧れており、三姉妹の中でもっとも母の面影があった淀殿を妻に迎えたと言われています。

しかし、秀吉には恋愛結婚した正室・寧々の存在がありました。当時は恋愛結婚が珍しく、寧々は親の反対を押し切って秀吉と結婚しましたが、秀吉は女好きで、寧々は信長に夫の浮気を訴えたこともあったそうです。寧々以外にも多くの女性と関係をもっていた秀吉でしたが、子宝にはなかなか恵まれませんでした。

待望の子供を懐妊!

京都市東山区・養源院所蔵の豊臣秀頼像です。

天正17年(1589)淀殿は待望の男児である鶴松を産みます。懐妊を喜んだ秀吉が淀城を与えて住まわせたことから、彼女は淀殿と呼ばれるようになりました。秀吉は生後4ヶ月程度の鶴松を後継者に指名しますが、病弱だった鶴松は3歳で亡くなり、甥・豊臣秀次が後継者となります。

しかし淀殿が再び懐妊し、文禄2年(1593)には豊臣秀頼が誕生。我が子を溺愛した秀吉は徐々に秀次を疎むようになり、ついには高野山に蟄居のうえ切腹させました。

分裂する豊臣政権

待望の後継者が誕生した豊臣家でしたが、やがて秀吉がこの世を去ります。そして豊臣政権は分裂していきました。

秀吉の死と秀頼の家督継承

信長の後継者となって以降の秀吉は、信長の政策を継承しながら太閤検地や刀狩といった画期的な政策を行い、兵農分離を促進しました。その後は明を征服しようと朝鮮出兵に精を出すも、志半ばで病没。秀吉は死の直前に五大老(前田利家・徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)と五奉行の一部に遺言書を出し、諸大名を呼び寄せ、家康に対し秀頼の後見人になるよう依頼したそうです。

その後、2度目の遺言書を五大老に出し、ついにその生涯を終えます。秀吉の死後、秀頼は豊臣家の家督を継承し、五大老・五奉行がこれを補佐しました。

石田三成と徳川家康の対立

東京大学史料編纂所所蔵の石田三成像(模本)です。

やがて政権内では、豊臣家を第一に考える石田三成ら文治派と、加藤清正ら武断派が対立。秀頼の傅役(教育係)で大坂城の実質的主だった利家が仲裁役となっていましたが、利家没後に武断派による石田三成襲撃事件が勃発します。逃れた三成は結果的に佐和山城に蟄居となり、家康が権力を握ることになりました。三成は、大谷吉継らとともに会津出征中の家康を討つべく挙兵します。このとき淀殿は、三成の行動を認めながらも秀頼の墨付きの発給や秀頼自身の出陣を拒否し、中立の立場を取り続けました。

一方、家康は三成挙兵を知らせる淀殿からの書状を材料に、「秀頼様のため」という大義名分を掲げます。そして、この対立は関ヶ原の戦いへと発展していきました。

関ヶ原の戦いと大坂の陣

家臣の対立により、関ヶ原の戦い、そして大坂の陣が勃発します。淀殿はどのようにこの苦境を生きたのでしょうか?

淀殿、家康と対立する

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いは家康率いる東軍の勝利におわりました。家康は豊臣家家臣・大野治長を通じて「淀殿と秀頼は西軍に関与していないと信じている」と述べ、これに感謝した淀殿は家康を酒食でもてなしています。しかし、家康は戦いの恩賞として諸将らに豊臣家の蔵入地(直轄地)を分配し、豊臣家はほとんどの支配地を失いました。淀殿は秀頼の後見人として大坂城の主導権を握りましたが、心労が多かったのか、関ヶ原の戦いの翌年には胸の痛みや頭痛、摂食障害などに悩まされたようです。

江戸で新たな武家政権を築き始めた家康は、徳川家への臣従を暗に求め、秀頼の上洛を要求します。淀殿は「そんなことを余儀なくされるなら、秀頼を殺し自害する」と主張し拒否しました。

大坂城にて、自害

大阪城公園に建つ「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」の石碑

慶長19年(1614)方広寺鐘銘事件をきっかけに大坂の陣が勃発。淀殿はみずから武具を着て武士を激励し、大坂城籠城策を主張しました。豊臣方は真田幸村(信繁)・後藤又兵衛(基次)・長宗我部盛親・毛利勝永・明石全登ら浪人を集めましたが、期待した豊臣恩顧の諸大名の協力は得られず、大坂城・本丸に砲撃を受けてしまいます。

翌年には再び大坂城が攻撃され、この戦いで幸村らが討死すると形勢逆転の望みもなくなり、淀殿は家臣・治長と秀頼とともに大坂城で自害しました。墓所は、京都市東山区・養源院、大阪市北区・太融寺にあります。淀殿の最期は目撃されておらず遺体も確認されなかったため、のちに逃亡説や生存説などが生まれました。

淀殿にまつわる逸話

淀殿はどのような人物だったのでしょうか?彼女にまつわる逸話をご紹介します。

悪女だった!?その真相とは……

淀殿はさまざまな文献で「悪女」とされ、自信過剰でわがままというイメージが定着しています。これは家康が豊臣家を滅亡させたことを正当化するための脚色で、江戸時代に定着したものではないかと考えられています。

実際はこまやかな配慮ができる責任感の強い女性だったようで、生活に困っていた信長の側室を援助したり、京都で放浪中だった従兄・織田信雄を大坂城に住まわせたり、妹・江が徳川秀忠に再嫁する際は、前夫とのあいだにうまれた完子を引き取って育てたというエピソードも残されています。

子・秀頼への深すぎる愛情

武家社会では子供を一人前の武士に成長させるため、実母の手で育てることはほとんどありませんでした。しかし、淀殿は秀頼を手元に置き、母乳で育てたといいます。『川上久国雑記』には「秀頼は乳飲子なり、お袋(淀殿)専制なり」との一文があり、「すでに青年だった秀頼をさしおいて淀殿が豊臣家を支配していた」と世間に認識されていたようです。

また大坂の陣においては、西軍の武将らが士気をあげるために秀頼の出陣を願ったものの、最後までそれを拒否しています。淀殿に過失があるとすれば、それは秀頼への愛情が深すぎたことかもしれません。

母親として天下人・秀頼を望み続けた

秀吉の子・秀頼を産み豊臣家の存続をかけて戦った淀殿は、大坂城で自害し、豊臣家滅亡とともにその一生を終えました。幼少期から過酷な運命にあった彼女の生涯は、まさに波瀾万丈の一言に尽きるでしょう。天下人・秀吉の妻となった淀殿は、我が子・秀頼にもまた天下人としての地位を望んだはずです。しかしそれは、変わりゆく時代のなかでは難しいことだったのかもしれません。

 

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