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【土方歳三の最期】蝦夷地で散った新選組副長の壮絶な人生を振り返る

【土方歳三の最期】蝦夷地で散った新選組副長の壮絶な人生を振り返る

幕末の日本で活躍し、その名を世に轟かせた新選組。その副長として今なお愛され続けている人物が土方歳三です。土方は新選組が瓦解したあとも旧幕府方として戦い続け、生まれ故郷から遠く離れた蝦夷地で最期を迎えました。彼の壮絶すぎる生涯と最期は、どのようなものだったのでしょうか?
今回は、土方のうまれから近藤勇との出会い、新選組副長としての暗躍、戊辰戦争での敗北と箱館戦争での激闘、遺体の謎と墓所などについてご紹介します。

 

うまれから近藤勇との出会いまで

土方の壮絶な人生はどのように始まったのでしょうか?うまれから剣術に目覚めるまでについて振り返ります。

多摩の豪農だった土方家

土方は、武蔵国多摩郡石田村(東京都日野市石田)の農家に10人兄弟の末っ子としてうまれました。幼いころは乱暴者や無鉄砲を意味するバラガキと呼ばれていたそうです。土方家は「お大尽(だいじん)」と呼ばれる多摩の豪農でしたが、うまれるまえに父が亡くなり、母も6歳のときにこの世を去っています。そのため、眼病の長兄にかわって家督を継承した次兄・喜六の妻に養育されました。

幼少期に江戸上野の「松坂屋いとう呉服店」(現:松坂屋上野店)に奉公に出ていたといわれていますが、確かなことはわかっていません。

天然理心流に入門する

近藤勇の肖像です。

土方は実家の「石田散薬」を行商しながら、各地の道場で他流試合や道場破りをして剣術修行を重ねます。姉・らんは日野宿名主である従兄弟・佐藤彦五郎に嫁いでおり、彦五郎は天然理心流に入門して自宅の一角に道場を開いていました。彦五郎は試衛館の近藤勇と義兄弟の契りを結ぶ仲で、近藤はこの道場にも指導にきていたようです。

土方はここで近藤と出会い、安政6年(1859)には正式に天然理心流に入門。文久元年(1861)に近藤が天然理心流4代目宗家を襲名すると、記念に催された野試合に紅組として出場しました。

鬼の新選組副長、誕生!

剣術の腕を磨いた土方は、やがて新選組副長に就任します。そして名声を高めるとともに、鬼の副長として恐れられました。

新選組の発足

このころ世間では尊王攘夷を掲げる過激派浪士が増え、幕府は取り締まりに苦労していました。そんな中、第14代将軍・徳川家茂の上洛が決まり、幕府は将軍警護と尊王攘夷派のけん制のために清河八郎の提案した浪士組を募集します。これは土方らにとって、剣術を活かし武士のように生きるチャンスでもありました。

文久3年(1863)2月、土方は試衛館の仲間とともに浪士組に応募して上洛。その後は京都に残留して会津藩預かりの壬生浪士と名乗るようになり、文久3年(1863)の八月十八日の政変での活躍が評価されると「新選組」という隊名を与えられました。

初代筆頭局長だった芹沢鴨が暗殺されると近藤が局長となり、土方は副長に就任。近藤の右腕となった土方は京都の治安維持にあたり、新選組のブレーンとして実質的な指揮をとります。こうして新選組は、幕末の京都で活躍することになったのです。

池田屋事件と隊士の粛正

京都・池田屋跡に建てられた石碑です。

元治元年(1864)6月5日、新選組は京都・池田屋において、京都焼き討ちをもくろむ尊王攘夷派の志士が謀議していたところを襲撃します。このとき土方は手柄を横取りされることを懸念し、後からやってきた会津藩や桑名藩の兵を現場に近づかせなかったそうです。この一件で、新選組は破格の恩賞を得るとともにその名を世間に轟かせました。

その後、新選組発足に貢献した山南敬助が脱隊・切腹する事件が起こります。また、幹部として招き入れた伊東甲子太郎も脱隊して御陵衛士を結成しますが、新選組に暗殺されました。土方は隊士に「局中法度」と呼ばれる厳しい隊規を課し、これを乱す者や幕府に刃向かう者には容赦なく仕置きしたといいます。これにより新選組は京都で恐れられ、土方は「鬼の副長」と呼ばれるようになりました。

幕府の終焉と戊辰戦争

幕府を後ろ盾として京都で権勢をふるった新選組ですが、やがて幕府終焉とともに戊辰戦争が勃発します。土方はどのような働きをしたのでしょうか?

近藤勇、投降するも斬首に

慶応3年(1867)6月、新選組は幕臣に取り立てられました。しかし同年、大政奉還により徳川慶喜が将軍職を辞し、王政復古の大号令が発せられたことから江戸幕府は事実上の終焉を迎えます。翌年1月に戊辰戦争が勃発すると、土方は新選組を率いて戦うも敗北し、旧幕府軍が撤退したあとは新選組を「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」と改名して甲州勝沼の戦いに参戦しました。

しかしここでも惨敗し、流山で再起を図るも近藤が敵軍に投降。土方の助命嘆願もむなしく、慶応4年(1868)4月25日、近藤は板橋刑場で斬首されました。

激化する会津戦争

会津戦争の鶴ヶ城攻防戦を描いた錦絵

土方は新選組を斎藤一に託して会津へ向かわせ、隊士数名を連れて大鳥圭介ら旧幕府軍と合流します。土方は先鋒軍の参謀を務めて宇都宮城を陥落させましたが、足の負傷により会津での療養生活を余儀なくされました。

復帰後、会津戦争で敗北した土方はこれ以上の防衛は困難だと判断。新選組は意見の違いから分裂し、会津藩に忠誠を尽くそうとする斎藤らは会津城下に残り、土方は仙台藩に向かい榎本武揚ら旧幕府海軍と合流しました。しかし、奥羽越列藩同盟の同盟藩が新政府軍に降伏したため、残る望みは蝦夷地(北海道)のみとなります。土方は新選組の生き残り隊士に桑名藩士らを加え、榎本らとともに蝦夷地に渡りました。

蝦夷共和国と土方の最期

蝦夷地は土方にとって最期の地となりました。土方はどのような活躍をし、どのように散っていったのでしょうか?

箱館・五稜郭を占領する

蝦夷共和国の本拠地となった箱館・五稜郭

慶応4年/明治元年(1868)10月、土方たちが蝦夷地に上陸すると、戊辰戦争最後の戦いとなる箱館戦争が始まりました。土方は幕府が箱館開港を機に築城した星形城郭・五稜郭を落とし、箱館、松前、江差を占領。12月には榎本を総裁とする蝦夷共和国が成立し、五稜郭がその拠点となります。土方は幹部として陸軍奉行並に就任し、ほかにも箱館市中取締・陸海軍裁判局頭取などを兼ねました。

しかし土方は冷静で、榎本らが祝杯をあげたときも「酒を飲んで浮かれるときではない」と口にしたといわれています。

新政府軍の総攻撃にて散る

明治2年(1869)4月、新政府軍が蝦夷地に上陸し、土方は二股口の戦いで徹底防戦します。翌月には、新政府軍による箱館総攻撃が開始。土方は新選組隊士・島田魁らが包囲されたのを知り、わずかな兵を率いて救援に向かいました。

一本木関門を守備した彼は、馬上で指揮を執りながら応戦しましたが、乱戦の最中に銃弾を受けて絶命します。そして1週間後、榎本の降伏により箱館戦争とともに戊辰戦争が終結しました。

遺体の謎と墓所について

最後まで屈することなく戦い続けた土方ですが、遺体や墓所には謎が残されているようです。

遺体の埋葬場所は未だに不明?

土方の遺体は未だ判明しておらず、ほかの戦死者とともに五稜郭内に埋葬されたとも、別の場所に安置されたともいわれています。五稜郭に関する大正時代の新聞の掲載などから、戦死者が五稜郭内に埋葬されたことは確実なようです。

しかし、土方の遺体という確証はなく、これは新選組や旧幕府軍が彼の遺体を隠したからではないかとも考えられています。

日本各地にある墓所

若松緑地公園にある土方歳三最期の地碑

土方の墓所や慰霊碑は日本各地に存在しています。出身地である東京都日野市・石田寺をはじめとし、北海道函館市・称名寺、福島県会津若松市・天寧寺、東京都北区・寿徳寺、東京都荒川区・円通寺などがあります。また、一本木関門跡の近くにある若松緑地公園には「土方歳三最期の地碑」が建てられており、五稜郭とともに観光スポットとなっています。

戦いに生き続けた鬼の副長

新選組時代、近藤の右腕として活躍し歴史に名を刻むことになった土方歳三。彼は田舎の剣士から幕臣となり、蝦夷地での新政権では幹部として君臨しました。残念ながら志半ばでこの世を後にしましたが、最後まで戦いに身を投じ武士であり続けた彼の生き様には感動する人も多いのではないでしょうか。壮絶な死を遂げた彼の生涯は、今後も多くの人々に影響を与え続けることでしょう。

 

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