徳川慶喜の兄・徳川慶篤(とくがわよしあつ)は、幕末の混乱のなかで水戸藩主となった人物です。烈公・徳川斉昭の跡を継いだ彼は、藩内の激しい抗争に生涯悩まされました。最後の将軍となった慶喜の影で苦慮しつづけた慶篤は、どのような人生をおくったのでしょうか?
今回は、慶篤の水戸藩10代藩主としての活躍、藩政の混乱と水戸藩士の抗争、慶篤の最期とその後の水戸藩、慶篤にまつわる逸話などについてご紹介します。
常陸国水戸藩10代藩主として
慶篤が水戸藩主として活躍するまでには紆余曲折ありました。うまれから藩主になるまで、その後の動きなどについて振り返ります。
幼くして家督相続する
慶篤は、水戸藩9代藩主・徳川斉昭の長男として水戸藩上屋敷でうまれました。幼名は鶴千代麿、諡号(しごう=死後におくる名)は順公で、徳川慶喜の同母兄にあたります。
尊王攘夷派の父・斉昭は、軍事力の近代化など革新的な藩政改革を行ったことから幕府に隠居を言い渡され、弘化元年(1844)幼年の慶篤が家督を相続。後見となったのは分家の三連枝(高松藩主・松平頼胤、守山藩主・松平頼誠、常陸府中藩主・松平頼縄)で、政務は保守派の重臣たちが補佐しました。
嘉永2年(1849)三連枝の後見が解除され斉昭の藩政参与が許されると、慶篤が藩主のまま斉昭が実権を握ります。そして嘉永5年(1852)12月、慶篤は12代将軍・徳川家慶の養女である線姫と結婚しました。
斉昭とともに井伊直弼と対立
老中首座・阿部正弘の要請により海防参与として幕政にも関与するようになった斉昭は、水戸学をもとに攘夷論を主張し、開国派の井伊直弼と対立します。将軍継嗣問題では一橋派を形成して実子・一橋慶喜を推しましたが、結果的には井伊をはじめとする南紀派が推す徳川家茂が後継者となりました。
大老になった井伊は、日米修好通商条約に独断で調印。この行為は、鎖国攘夷を主張する朝廷や雄藩の怒りに触れました。慶篤も斉昭とともに江戸城に無断登城して井伊を詰問しましたが、このふるまいにより斉昭は謹慎となり、慶篤も登城停止処分となっています。
父の死後、藩主として活躍
雄藩の非難を受けた井伊は、安政7年(1860)の桜田門外の変で殺害されますが、その前年、安政の大獄により攘夷派の志士たちを処罰していました。江戸の水戸屋敷で謹慎していた斉昭も水戸での永蟄居を命じられ、井伊の死から約5ヶ月後にはその地で急逝。死因は、長期間の蟄居による心筋梗塞だと考えられています。
父の死後、慶篤は藩主として活躍し始めました。文久2年(1862)、公武合体を推進して和宮降嫁を実現させた老中・安藤信正が、水戸浪士中心の尊王攘夷派に襲われる坂下門外の変が勃発。慶篤は父の執政として藩政を支えていた武田耕雲斎らを登用し、尊王攘夷派の懐柔を図ります。また将軍・家茂に従って上洛し、朝命により関東守備や横浜鎖港に当たり、生麦事件の賠償問題などにも尽力しました。
藩政の混乱と水戸藩士の抗争
父の死後、藩政に着手した慶篤でしたが、水戸藩では尊王攘夷派と保守派の抗争が激化していきます。対応に苦慮した慶篤は、どのような行動に出たのでしょうか?
天狗党の乱が勃発する
幕末期の水戸藩では、尊王攘夷派は「天狗党」と呼ばれました。天狗党は藩の実権を握っていましたが、斉昭の死後は保守門閥派・諸生党が勢力を増し、両者の対立が激化していきます。文久3年(1863)、公武合体派が尊王攘夷派を京都から追放した「八月十八日の政変」が起こると、天狗党の藤田小四郎らは幕府に攘夷の実行を促すため、元治元年(1864)に筑波山で挙兵し天狗党の乱が勃発します。
慶篤は天狗党を支持したものの、幕府が天狗党の討伐を決めると一転して耕雲斎らを罷免し、宍戸藩主・松平頼徳を討伐軍として派遣するなど藩政を混乱させました。この後3年間は諸生党が実権を握り、天狗党の藩士の家族が処刑・投獄されるなど禍根を残す結果となります。
徳川慶喜の助言で藩政を刷新
慶応3年(1867)、最後の将軍となっていた慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府は事実上の終焉を迎えました。王政復古の大号令のあと、旧幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで敗北。慶喜は江戸、水戸、駿府と謹慎先を転々とし、水戸藩の状況も一変します。京都・本圀寺(ほんこくじ)で慶喜を補佐しながら二条城警護にあたっていた水戸藩士・本圀寺勢は、朝廷から「除奸反正」の勅書を賜りました。
これは、「諸生党らを討伐し藩政を正常化せよ」という内容で、弟・慶喜からその通りに藩政を刷新するよう助言された慶篤はすみやかに勅命を受諾します。こうして江戸の水戸藩邸で門閥派を一掃すると、その後は尊王攘夷派が実権を握り、水戸徳川家は朝敵になることを免れました。
激しい報復が行われた
慶篤は勅書を遂行すべく、諸生党討伐の軍備を整え水戸藩に帰国しました。頭領・市川三左衛門をはじめとする諸生党500名はすでに水戸を脱出していたため、戦闘することなく水戸城へと入城しますが、その後、水戸城下では勅書の名のもとに激しい報復が行われました。被害は諸生党の縁類のみならず、中立派や僧侶・豪農にも及んだといわれています。
慶篤の最期とその後
幕末の動乱のなかで最期をむかえた慶篤。その後の水戸藩はどうなったのでしょうか?
水戸城で死去した慶篤
慶篤は水戸に戻ったときにはすでに体調が思わしくなく、慶応4年(1868)水戸城にて亡くなりました。慶篤には長男・篤敬がいましたが、水戸藩の家督は異母弟・徳川昭武に継承させる予定だったようです。ただし、昭武はこのとき海外に留学中だったため、帰国までのあいだ慶篤の死は伏せられ、表向きは城中にて重病とされました。墓所は、茨城県常陸太田市・瑞龍山墓地にあります。
徳川昭武が最後の藩主に
慶篤の跡を継いだ昭武は、慶応2年(1867)に清水徳川家を相続し、パリ万国博覧会の使節団として渡仏しました。この使節団のなかには、のちに実業家として活躍する渋沢栄一の姿もあり、2人はともにヨーロッパ各地を訪問したといいます。そして帰国翌年、水戸徳川家を相続し藩主に就任。版籍奉還後は水戸藩知事となりました。
なお、慶篤の長男・篤敬は昭武の養嗣子となり、明治16年(1883)に家督を継承しています。また慶篤の次男・篤守は、昭武が水戸家を継いだために当主不在となっていた清水徳川家を明治3年(1870)に相続しました。
慶篤にまつわる逸話
慶篤はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわる逸話をご紹介します。
あだ名は「よかろう様」
慶篤は家臣の献策に対し、すべて「よかろう」と裁定したといわれています。そのため、「よかろう様」というあだ名がついていたのだとか。徳川御三家の一つである水戸徳川家の継承者としては、少し残念なあだ名といえるかもしれません。しかし、彼が激しい藩内対立を鎮めるという難しい立場にあったことは確かでしょう。
弟・慶喜を心配していた
慶篤は最後まで慶喜の身を案じ続けていたといわれています。また慶喜も、慶篤を説得して藩政を刷新させるなど実家の将来を案じていたようです。彼らは、歴史が大きく動いた時期に幕府側として難しい選択を迫られました。そのような共通点をもつ二人は、似たような悩みを抱えていたのかもしれません。
優秀な人材を失った水戸藩
水戸藩は尊王攘夷主義の中心でしたが、激しい藩内抗争により天狗党の乱が勃発し、多くの優秀な人材が失われました。水戸藩の思想は当時の先端をいくものでしたが、結果的に明治政府で活躍する高官を輩出できなかったのは皮肉といえるでしょう。そんな動乱の幕末期に由緒ある水戸藩の藩主となった慶篤。NHK大河ドラマ『青天を衝け』では、中島歩さんがどんな慶篤を演じるか注目ですね。