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【孝明天皇】悲願の攘夷を遂げられず、騒乱を憂いて幕末を生きた天皇

【孝明天皇】悲願の攘夷を遂げられず、騒乱を憂いて幕末を生きた天皇

孝明天皇は日本の第121代天皇で、激動の幕末を生きた人物です。明治天皇の父にあたり、一世一元の詔が発布される前の最後の天皇でもありました。開国か、それとも攘夷か、そんな世相のなかで信念を貫いた孝明天皇は、江戸幕府を滅亡に導いたキーパーソンとも考えられています。

今回は、孝明天皇の皇位継承と当時の国内情勢、開国を迫られた日本の対応、攘夷を掲げた孝明天皇の行動と最期、孝明天皇はどのような考えをもっていたか、などについてご紹介します。

皇位継承と国内情勢

幕末の混乱のなかでうまれた孝明天皇。まずは、うまれから皇位継承までの経緯、当時の国内情勢を振り返ります。

第121代天皇として即位

孝明天皇は天保2年(1831)仁孝天皇の第4皇子として誕生し、煕宮(ひろのみや)と命名されました。傳役(養育係)には近衛家第27代当主・近衛忠煕(このえただひろ)が就いています。天保6年(1835)親王宣下により統仁親王となり、天保11年(1840)には立太子の儀が行われ皇太子となりました。弘化3年(1846)に仁孝天皇が崩御すると、第121代の天皇に即位します。

対外情勢の緊迫

18世紀後半以降、日本では異国船の目撃例が増え、寛政4年(1792)には漂流民・大黒屋光太夫らを連れたロシアの遣日使節アダム・ラクスマンが正式な通商を求めてきました。それ以降、諸外国から開国と通商関係を迫られた日本ですが、鎖国中の幕府は拒否を続けます。しかし要求は増すばかりで、文化4年(1807)にはロシア外交使節ニコライ・レザノフによる日本の北方拠点への攻撃・文化露寇(ぶんかろこう)が起こり、その翌年にはイギリス軍艦が長崎で狼藉を働くというフェートン号事件が勃発。これらの事態に幕府は、文政8年(1825)異国船打払令を発令します。

こうして緊張感が増すなか、弘化3年(1846)孝明天皇は対外情勢の報告をするよう幕府に命じ、幕府は異国船の来航状況などを報告するようになりました。この頃の朝廷は「禁中並公家諸法度」により政治に関与できませんでしたが、この出来事により朝廷と幕府の関係は変化していきます。

開国を迫られた日本

諸外国の圧力により条約を結んだ日本。この問題をめぐる天皇と幕府の動向はどのようなものだったのでしょうか?

雄藩と協調しようとした幕府

嘉永6年(1853)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航し、大統領の国書を持って日本に開国を要求します。老中首座・阿部正弘は諸大名に開国についての意見を求め、国書の受理を朝廷に通達。これまで政治を独占してきた幕府にとって、このように雄藩と協調して意見を聞くというのは前代未聞のことでした。

当初、諸大名のあいだでは戦争も辞さないという強硬論もありましたが、開国を望む幕府による諮問を重ねた結果、幕府の開国策が主流となります。またこの頃の幕府内では将軍継嗣問題も勃発しており、一橋慶喜を推す一橋派と徳川慶福(のちの徳川家茂)を擁立する南紀派が対立しました。

日米和親条約の締結

嘉永7年(1854)、横浜での黒船来航

嘉永7年(1854)ペリーの再来航により幕府は日米和親条約を締結し、下田と箱館の開港、薪水や食料の給与、領事の滞在などを認可します。そしてイギリスやロシアとも同じ条約を締結し、鎖国に終止符を打ちました。孝明天皇がこの事態をどう考えていたのかはわかっていませんが、この時点では一定の理解は示していたと考えられています。しかしその後、急死した阿部に代わり老中・堀田正睦が日米修好通商条約の調印勅許を得ようとした際には、勅許を出すことを拒否しました。

勅許なしの日米修好通商条約

安政5年(1858)4月、井伊直弼が大老に就任し、孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約が調印されます。井伊自身は勅許なしの条約調印に反対でしたが、幕閣会議では即刻調印を推す声が多く、井伊は「侵略戦争という最悪の事態を避けられるなら即時調印も仕方ない」との考えを口にしました。これが調印承諾と判断され、日米修好通商条約は勅許なしに調印されたのです。

井伊の行動に反発した徳川斉昭らは無断登城して井伊を詰問しましたが、安政の大獄により隠居謹慎処分になります。また、勅許なき調印に怒った孝明天皇は攘夷の意思を示しました。

攘夷を掲げた孝明天皇

開国をめぐって幕府と対立する孝明天皇でしたが、やがて公武合体の動きが現れ、孝明天皇は最期を迎えます。

「戊午の密勅」と幕府との対立

開国に奔走した老中・間部詮勝

日米修好通商条約の調印後、幕府はフランス、イギリスなどと同様の条約を結びます。これを不服とした孝明天皇は、幕府を通さずに幕政改革や公武合体を指示する「戊午の密勅」を水戸藩に直接下賜します。この密勅はいざというときの出兵依頼も含め各藩に回送されました。幕府はその内容を秘匿するよう水戸藩主・徳川慶篤に命令し、密勅は朝廷の政治関与であるとして関係者を厳しく取り締まります。幕府や幕府寄りの関白・九条尚忠の圧力により密勅に関与した公卿・皇族が処分されるなか、老中・間部詮勝が調印に関して説明するために参内。しかし、孝明天皇は「開国は承知できない」として姿を現しませんでした。

公武合体と和宮降嫁

安政5年(1858)10月、井伊らが推す慶福が徳川家茂として第14代将軍に就任しますが、その2年後に桜田門外の変で井伊が暗殺されます。政局が不安定となる中、幕府は権威修復と公武合体実現のため、孝明天皇の異母妹である和宮の将軍家降嫁を求めます。孝明天皇は何度も拒絶しましたが、最終的には鎖国と攘夷実行の条件つきで承諾しました。

一方、直弼暗殺に恐れをなした幕府は、安政の大獄で謹慎していた一橋慶喜の処分を解除。文久2年(1862)7月、慶喜は将軍後見職に任命され、幕政改革を進めることになりました。攘夷実行を避けたい慶喜でしたが、朝廷との交渉は失敗。逆に攘夷の実行を命じられてしまいます。江戸に戻った慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷策として横浜港の鎖港を確定しました。こうした状況により、長州藩を中心とした尊王攘夷派はますます勢いを増していきます。

しかし文久3年(1863)8月18日、攘夷を望みつつも過激な戦争を恐れた孝明天皇は、薩摩藩などとともに長州藩や攘夷急進派の公家を排除しました(八月十八日の政変)。

最後は批判され、毒殺説も……

その後、孝明天皇の権威は幕府や諸藩、公家、志士らの権力闘争に巻き込まれて低下していきます。慶応元年(1865)諸外国は攘夷運動の要因が孝明天皇にあるとして条約の勅許を要求し、事態の深刻さを悟った孝明天皇は条約の勅許を出しました。やがて公武合体の維持を望む天皇に対する批判が高まり、天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める「廷臣二十二卿列参事件」などが発生。

そんな中、孝明天皇は在位21年で崩御しました。死因は天然痘とされていますが、毒殺などの他殺説も存在しているようです。

孝明天皇の考えとは?

孝明天皇の意思は、幕末の混乱の一端となりました。孝明天皇の考えとはどのようなものだったのでしょうか?

攘夷派だが、倒幕派ではなかった

文久3年(1863)攘夷について話し合うため将軍・徳川家茂が上洛しますが、将軍名代の慶喜がそれに先んじて朝廷と交渉し、攘夷実行を含む国政全般を幕府に任せるか、政権を朝廷に返上するかという二者択一を迫ります。朝廷は幕府に政治を委任する一方、諸藩に直接命令することもあるとし、さらには攘夷実行を命じました。

尊王攘夷と倒幕は結びついているように感じられますが、このように孝明天皇は倒幕派ではありませんでした。また、攘夷派であっても過激な戦争は望んでおらず、あくまで幕府への攘夷委任(交渉による通商条約の破棄、鎖港)を支持していたようです。

京都守護職・松平容保を信任していた

京都守護職時代の松平容保

孝明天皇は京都守護職である会津藩主・松平容保を厚く信任していたといわれています。一方、尊王攘夷派の公家が長州勢力と手を組んでさまざまな工作をしたことから、長州藩のことは最後まで嫌悪していたようです。これについては『孝明天皇記』で記録された書簡にも明記されています。

日本を想い、攘夷を唱え続けた

開国に突き進む幕府に対し、最後まで攘夷を唱え続けた孝明天皇。その頑なな意思は幕府滅亡のキッカケともなりました。しかしそれは、あくまで日本の未来を思ってのことだったといえるでしょう。孝明天皇は幕府とともに歩むことを考えていましたが、やがて尊王攘夷派は孝明天皇の意思とは逆に倒幕へと進んでいきます。そして、明治維新とともに江戸時代は終焉を迎えるのでした。

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