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【後鳥羽上皇】承久の乱で隠岐に配流された上皇はどんな人物だったのか?

【後鳥羽上皇】承久の乱で隠岐に配流された上皇はどんな人物だったのか?

後鳥羽上皇といえば、承久の乱で鎌倉幕府と戦った末に配流された人物として有名です。また、長きにわたり院政を敷いたことでも知られています。権力を振りかざしていたようにも見える後鳥羽上皇ですが、その生涯はどのようなものだったのでしょうか?

今回は、後鳥羽上皇のうまれから院政を始めるまで、承久の乱とその後、後鳥羽上皇の人物像と逸話などについてご紹介します。

うまれから院政を始めるまで

後鳥羽上皇がうまれたのはまさに動乱期でした。この時代背景がその後の人生を決めることになります。

神器がないまま第82代天皇に

後鳥羽上皇は、治承4年(1180)高倉天皇の第4皇子・尊成親王(たかひらしんのう)として誕生しました。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟にあたります。この頃は、平家打倒の兵を挙げた以仁王が敗死し、源頼朝が挙兵するという動乱期でした。寿永2年(1183)平家が安徳天皇を伴って都落ちしたため、後白河法皇の詔により天皇の地位を継承し後鳥羽天皇となります。しかし、皇位継承と同時に引き継がれる三種の神器(八咫鏡、草薙剣、八尺瓊勾玉)が平家に持ち去られていたため、神器なしの異例の継承となりました。

実権を握れずに時が過ぎる

2年ほど安徳・後鳥羽両天皇が並立しましたが、文治元年(1185)に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し、安徳天皇も入水して亡くなります。その後は後白河法皇の院政が続き、法皇の死後は関白・九条兼実が実権を握りました。これに対し、高倉天皇時代からの側近・源通親(土御門通親)は反兼実勢力を築きます。

後鳥羽天皇は兼実の娘・九条任子を中宮(天皇妻の呼称のひとつ)とし、皇女・昇子をもうけました。しかしその後、後鳥羽天皇の後宮に入った通親の養女・在子(承明門院)が皇子・為仁(のちの土御門天皇)を出産。これを機に建久七年の政変が起こり、通親の策謀で任子は宮中を追われ、兼実も関白を罷免され失脚します。こうして権勢を強めた通親は全盛期を迎えました。

名実ともに治天の君に

『天子摂関御影』より、土御門天皇の肖像です。

長らく実権をもたなかった後鳥羽天皇ですが、建久9年(1198)に第1皇子・土御門天皇に譲位して上皇になると、以後3代23年間にわたって院政を敷くことになります。建仁2年(1202)に兼実が出家し通親が急死すると、後白河法皇や頼朝も死去していたことから、名実ともに実権を握りました。後鳥羽上皇は院政機構の改革に着手するなど積極的な政策を行い、鎌倉幕府にも強硬な態度をとります。また源実朝が将軍になると、実朝を取りこんで幕府内部への影響力拡大を図りました。

承久の乱とその後

ようやく実権を手にした後鳥羽上皇ですが、その後、運命を握る承久の乱が起こります。

鎌倉幕府の執権・北条義時と対立

このころ朝廷と幕府は対立関係にありましたが、実朝がそれを緩和する役割を果たしていました。ところが、承久元年(1219)に実朝が暗殺され、鎌倉幕府では執権・北条義時が台頭。いよいよ対立は深まり、後鳥羽上皇は義時追討の命令を出して承久の乱を起こしました。朝敵となることに臆した幕府の御家人たちは戦意喪失したものの、北条政子の演説により奮起して進軍を始めます。楽観視していた後鳥羽上皇にとってこれは想定外の出来事でした。京には鎌倉方の大軍が押し寄せ、朝廷方も必死で応戦するも完敗。この戦における幕府側の勝利により、鎌倉幕府は朝廷に対する権勢を強めます。

隠岐への配流と崩御

戦後、後鳥羽上皇は隠岐島に配流となりました。また、計画に協力した順徳上皇は佐渡島へ、土御門上皇は自ら望んで土佐国に配流となっています。後鳥羽上皇は隠岐に流される直前に出家して法皇となり、隠岐の苅田御所に移されてからは和歌で心を慰め、仏道に励む生活を送ったといわれています。その後、摂政・九条道家が還京を提案したものの、時の執権・北条泰時は受け入れませんでした。そして延応元年(1239)2月20日、後鳥羽上皇は配地で崩御します。同地で火葬されたあと遺骨が移され、仁治2年(1241)に大原・法華堂に安置されました。御陵は、京都府京都市左京区大原勝林院町の大原陵。また、後鳥羽上皇の離宮・水無瀬殿の跡に建立された大阪府の水無瀬神宮では、後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇が合祀されています。

死後は怨霊になった……?

後鳥羽上皇には、死後に怨霊になったという伝説があります。同時代の公家の日記『平戸記』には、三浦義村や北条時房の死は後鳥羽上皇の怨霊が原因だとする記述も残されており、当時の公家社会では後鳥羽上皇の怨霊化は強く信じられていたようです。後鳥羽上皇には当初、「顕徳院」という諡号が送られました。この「徳」のつく諡号は、非業の死を遂げ怨霊化しそうな帝に贈られるものともいわれており、仁治3年(1242)に道家の提案により追号「後鳥羽院」が贈られたことは、怨霊説の払拭の意味もあったと考えられています。

後鳥羽上皇の人物像と逸話

配流地で崩御するという悲しい最期を迎えた後鳥羽上皇。その人物像と逸話についてご紹介します。

多才多芸な人物だった!

後鳥羽上皇は、蹴鞠・乗馬・琵琶・秦箏・笛などのほか、相撲・水練・射芸といった武技もたしなんでいました。文武にわたり多才多芸な人物だったといわれ、宮中に忍び込んだ盗賊を自ら撃退したという逸話も残されています。

自ら作刀も?菊紋を使い始めた

刀をこよなく愛した後鳥羽上皇は、諸国から鍛冶を招き、月番を定めて鍛刀させていました。また、刀好きが高じて自らも鍛刀したといいます。後鳥羽上皇は十六弁の菊紋を彫って自分の印として愛用しており、この「御所焼」「菊御作」は皇室の菊紋のはじまりとなりました。

中世屈指の歌人で著作も多数

後鳥羽上皇は歌人としても高名で、藤原定家の作風に影響を受けて急速に進歩した歌作は、後代にまで大きな影響を与えました。歌会・歌合などを行ったほか、和歌所を置いて歌人たちを集め『新古今和歌集』を編さん。また、歌集『後鳥羽院御集』『後鳥羽院遠島百首』、歌論書『後鳥羽院御口伝』など多数の著書を残しています。

和歌が『小倉百人一首』に選ばれる

後鳥羽上皇の和歌がかかれた百人一首

後鳥羽上皇の歌は「小倉百人一首」の99番目にも選ばれています。『続後撰和歌集』から選ばれた「ひともをし  ひともうらめし あぢきなく よをおもふゆゑに ものおもふみは」の歌は、「ある時は人を愛しく思い、ある時は恨めしいとも思う。この世はどうにかならないものだろうが、それゆえに物思いをする私であるよ」との意味。この歌は、愛憎が交錯し思い悩みつつ世に生きる身の嘆きがテーマとなっています。

実は深いコンプレックスも……

権力をもち多才でもあった後鳥羽上皇ですが、三種の神器が揃わないまま皇位継承したことはコンプレックスだったようです。後鳥羽上皇の治世を批判する際は神器が揃っていないことを引き合いに出されることもあったため、上皇は権力を示し強硬な政治姿勢をとることでコンプレックスを克服しようとしたとも考えられます。一説には、これが承久の乱の遠因だとする見方もあるようです。

朝廷の復権を目指すも失敗に終わった

承久の乱によって地位も権力も失ってしまった後鳥羽上皇。幼くして即位するもしばらく実権を得られず、ようやく権力を手にしたあとは長きにわたり院政を敷きました。朝廷の復権を目指したものの、承久の乱での敗北により幕府に権力を握られる結果となってしまいます。もともと多才な人物なので、幕府との協調路線を貫いていたら、さらにその才能が活かされていたかもしれませんね。

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