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【治承・寿永の乱(源平合戦)とは?】合戦の背景から経緯までをわかりやく解説

【治承・寿永の乱(源平合戦)とは?】合戦の背景から経緯までをわかりやく解説

平安時代末期、日本では大規模な内乱が起こりました。それが源氏と平家の対立による「治承・寿永の乱(源平合戦)」です。この内乱の結果、源氏による鎌倉幕府が開府され武士の時代が始まります。徳川幕府が大政奉還するまで続くことを考えれば、この内乱の影響は大きいといえるでしょう。

今回は、治承・寿永の乱(源平合戦)の概要、内乱が起こった背景と原因、内乱の経緯などについてご紹介します。

治承・寿永の乱(源平合戦)とは?

治承・寿永の乱は、治承4年(1180)から元暦2年(1185)に起こった6年間にわたる内乱で、以仁王(もちひとおう)が平家追討の令旨を発して挙兵してから、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡するまでの争いを指します。中心となったのは源氏と平家ですが、諸国の武士をも巻き込んだ全国規模の内乱となりました。当時の年号を冠して「治承・寿永の乱」とされ、ほかにも「源平合戦」「源平争乱」「源平の戦い」などと呼ばれています。

内乱が起こった背景と原因

そもそも源氏と平家はなぜ対立したのでしょうか?内乱にいたるまでの背景・原因などを振り返ります。

平家が隆盛を極める

『平治物語絵巻』に描かれた平治の乱

朝廷や貴族の権力闘争は、武士の力を借りたことから保元の乱・平治の乱といった軍事衝突に発展しました。源義朝と平清盛は保元の乱で共闘したものの平治の乱では対立関係となり、平治の乱で勝利に貢献した清盛はその後大きく飛躍していきます。義朝の死により源氏が息をひそめる一方、清盛は対立を深める後白河上皇と二条天皇のあいだでうまく立ち回り、摂政家と姻戚関係を結ぶなどして政界で地位を高めました。さらに、二条天皇の崩御後は後白河上皇に接近して太政大臣にも就任。こうして平家の朝廷での発言権が高まっていきます。

鹿ケ谷の陰謀で平家打倒を目指すも……

出家した後白河法皇と清盛は連携していましたが、橋渡しをしていた清盛の義妹・平滋子(建春門院)が亡くなると両者は徐々に対立しました。比叡山の末社の対立をきっかけに比叡山と院近臣が対立した際、後白河法皇は平重盛・平宗盛に出陣を指示。2人は福原にいた父・清盛に判断を仰ぎ、清盛は上洛することを決めます。しかし清盛は、京都郊外の鹿ケ谷にある山荘で平家打倒の謀議が行われているという密告を受け、延暦寺に向かうはずだった軍を鹿ケ谷へ差し向けました。これにより集まっていた後白河法皇の有力近臣は捕らえられ、後白河法皇は政治的地位が低下していきます。

治承三年の政変が勃発!

治承2年(1178)、後白河法皇と滋子の子・高倉天皇と、清盛の娘・徳子のあいだに皇子(安徳天皇)が誕生しました。このとき周囲は平家で固められ、院近臣は排除されたといいます。そのため後白河法皇は警戒を強め、死去した清盛の娘・盛子の所領をすべて没収し、清盛の面目を潰す人事を行いました。これに怒った清盛はクーデターを起こし、後白河法皇は幽閉され院政を停止されます。また、高倉天皇が息子・安徳天皇に譲位し、平家の影響下で高倉院政が開始されました。

内乱の経緯

後白河法皇と平家の対立が深まるなか、源氏の挙兵により治承・寿永の乱が勃発します。内乱はどのように進んでいったのでしょうか?

以仁王の挙兵

治承4年(1180)、安徳天皇の即位により皇位継承が絶望的となった後白河法皇の第3皇子・以仁王(もちひとおう)は、源頼政の協力により平家追討の令旨を発します。これは源行家により全国の源氏に伝えられました。しかし、以仁王自身は挙兵前に平家側に計画が漏れ、平知盛・平重衡率いる大軍の攻撃で戦死します。

石橋山の戦いで源頼朝が敗走

以仁王の令旨は、平治の乱で伊豆国に流刑となっていた義朝の子・源頼朝のもとにも届けられました。頼朝はしばらく事態を静観していましたが、平家が令旨を受けた諸国の源氏追討を企てていると知り決意を固めます。頼朝は相模・伊豆・武蔵の武士団に呼びかけ、妻・北条政子の実家である北条家の協力を得て挙兵。伊豆国目代・山木兼隆を襲撃して殺害すると、次いで相模国石橋山で大庭景親らと交戦するも敗走しました。山中に逃げ込んだ頼朝は梶原景時に見つかりますが、命を救われ安房で再挙します。

富士川の戦い、そして清盛の死

富士川の戦いで敗走する平家を描いた『吉原 冨士川水鳥』

再挙した頼朝軍は大軍に膨れ上がっていました。平家方は平維盛・平忠度らが率いる追討軍を派遣しますが、頼朝の大軍を前に交戦せずに敗走。これにより頼朝軍は富士川の戦いで勝利します。

その後、頼朝は東国の支配体制を整えるべく侍所を新設し、和田義盛を別当に、のちに梶原景時を所司に任命しました。こうして源氏が台頭すると、畿内でも反平家の動きが強まります。清盛は福原に遷都後に再び平安京に都を戻し、反平家勢力・興福寺を焼き討ちにするなど軍事制圧を敢行。そんな情勢の中、高倉上皇の崩御により後白河法皇の院政が復活します。また、清盛が熱病で没したため、宗盛が平家の棟梁の座を継承しました。

木曽義仲の上洛と滅亡

頼朝が勢力を強める一方、同じ源氏一族である木曽義仲は、信濃から越後を席巻し以仁王の子・北陸宮を推戴して北陸で優位を誇りました。平家方は維盛・平通盛率いる大軍を派遣するも倶利伽羅峠の戦いで敗北。義仲軍は延暦寺まで迫り、京都の防衛を断念した宗盛は安徳天皇や三種の神器を保持しながら西国に都落ちしました。

上洛した義仲は地位を得ましたが、任された京の治安維持がうまくいかず、北陸宮の即位を強硬に主張したことから後白河法皇と対立。頼朝方と手を結んだ後白河法皇を幽閉し傀儡政権を樹立しますが、宇治川の戦いで頼朝方の義経軍・義仲軍に敗退し、粟津の戦いで戦死しました。

一ノ谷の戦いで平家を撃破

そのころ、都落ちした平家は勢力を立て直し摂津福原まで勢力を回復していました。朝廷は三種の神器を取り戻そうと平家に返還を求めますが、交渉がまとまらず武力攻撃を決意します。平家追討に向かった源範頼・義経軍は、一ノ谷の戦いで平家軍と激突。範頼・義経軍は二手に分かれて急襲し、平家を海上へと敗走させました。この戦いにより平家は有能な武将を多く失ったといいます。

屋島の戦いと源義経の活躍

『平家物語絵巻』巻十一、屋島の戦い「扇の的」

一ノ谷の戦いで敗れた平家は讃岐屋島に本拠を構えました。九州征伐を担ったのは範頼軍でしたが、船の調達ができず兵糧も不足したことから進軍が停滞し、窮地を知った義経軍が出陣します。水上戦に長けた平家と戦うため、義経は摂津国の水軍、熊野水軍、伊予国の水軍を味方につけ、背後から屋島を急襲して平家を追い落としました。この一ノ谷の戦いでは、那須与一の「扇の的」という逸話が有名です。

最終決戦!壇ノ浦の戦い

瀬戸内海の制海権を失った平家軍は長門へと撤退し、範頼軍の九州制圧により完全に包囲されます。そして元暦2年(1185)3月、関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われました。序盤は平家が優勢だったものの、潮流が変わると義経軍が有利となり、阿波水軍の裏切りもあって平家の敗色が濃厚になります。覚悟を決めた安徳天皇と二位尼(平時子)は三種の神器とともに入水し、次いで平家の武将たちも身を投げ平家は滅亡しました。

源頼朝による鎌倉幕府が樹立された

6年間にわたって続けられた平家と源氏による治承・寿永の乱は、源氏の勝利に終わりました。もともと朝廷の権力闘争に引き込まれた立場だった武士が、戦いの中心となり政治権力をもつようになったのは、朝廷にとっては皮肉なことだったのかもしれません。隆盛を極めていた平家はこの内乱の終結により滅亡し、頼朝による新しい武家政権である鎌倉幕府が樹立しました。

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