石橋山の戦いで大敗を喫した源頼朝は、安房国に落ち延びて再挙することになります。この時に2万騎を率いて参陣したのが、上総広常(かずさ ひろつね)です。平家打倒に燃える頼朝にとって心強い味方となった広常ですが、実は平家に従っていた人物でした。令和4年(2022)放送予定のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では佐藤浩市さんが広常役を演じることが決まっていますが、広常はいったいどのような人物だったのでしょうか。
今回は広常の生い立ち、平家側から源氏側につくまで、広常を襲った悲劇などについてご紹介します。
源氏に味方した平家の武将
頼朝の挙兵前は平家側の武将だった広常が、源氏側につくまでを振り返ります。
もとは源氏の郎党だった広常
東国で大きな勢力を有する房総平氏惣領家の頭首だった広常は、鎌倉を本拠とする源義朝の郎党でした。平治元年(1159)に起こった平治の乱では、義朝の長男である源義平に従い義平十七騎の一騎に数えられています。
しかし、この戦いで源氏は敗北。義朝と義平は命を失い、広常は領国の房総へと戻り平家への恭順を示しました。
平清盛に勘当される
領国へ戻り平家に従っていた広常でしたが、治承3年(1179)に平家の有力家人である伊藤忠清が上総の国のトップである「上総介」に任じられたことで事態は変わってきます。上総氏は上総・下総2ヶ国に所領を持つ大きな勢力でしたが、上総介の座を失うことはそれらの勢力を維持できなくなることを意味していました。また、国務に対する考え方にも違いがあり、広常と忠清は対立。これが原因で、広常は平家の棟梁である平清盛に勘当されました。
広常は源氏の郎党として活躍していたこともあり、この出来事が頼朝の挙兵に協調した理由のひとつになったと考えられています。
源頼朝挙兵
清盛に勘当された広常は、ある思いを胸に秘めて頼朝のもとへ向かいます。
2万騎を率いて参陣
治承4年(1180)8月に平家打倒を決意し挙兵した頼朝でしたが、9月の石橋山の戦いにおいて、大庭景親をはじめとする平家に敗北。安房国で再挙を図る頼朝のもとに現れたのが、広常でした。2万騎(諸説あり)もの手勢を有していた広常は、頼朝に合流する道中で上総国内の平家方を一掃してきたと考えられています。石橋山の戦いで大きく戦力を削られた頼朝にとって、最大級の戦力が味方になったといえるでしょう。
しかし、広常は心の中で「頼朝の器量を見極め、器量が及ばなければその場にて討とう」と考えており、頼朝が自分の主君に相応しいかどうかを試していました。そう考えていた広常に対して、頼朝は大軍の加勢に喜ぶどころか、遅参した広常を叱責するという毅然(きぜん)とした態度で迎えました。これに広常が感服し恭順することになった、と『吾妻鏡』では伝えられています。
金砂城の戦い
治承4年(1180)11月の富士川の戦いで平維盛に勝利した頼朝は、平家の追撃を命じました。しかし、広常は姻戚関係でもある佐竹氏討伐を主張、広常の主張を受け入れた頼朝は、佐竹氏の本拠地である常陸へ向かいます。佐竹氏当主・佐竹隆義は不在でしたが、広常は嫡男の佐竹義政を矢立橋に誘い出し殺害。堅牢な金砂城へ籠城した次男の佐竹秀義に抵抗するべく、広常は一つの策を提案しました。頼朝は広常の献策通りに、秀義の叔父・佐竹義季を味方に勧誘します。金砂城のつくりに詳しい義季を味方に引き入れ、頼朝軍は総攻撃を加えて秀義を敗走させました(金砂城の戦い)。
姻戚関係もある佐竹氏討伐を広常が主張した理由としては、佐竹氏が関東に残る平家方最大勢力であったこと、北の奥州藤原氏と提携の可能性があったことが挙げられます。また、頼朝と佐竹氏は金砂城の戦い以前にも戦っており、このことも広常が佐竹氏討伐を主張した理由といえるでしょう。
広常の横暴な態度
勢力を拡大していく頼朝配下のなかでも、広常が持つ戦力は群を抜いていました。大きな力を有していたからか、次第に広常の横暴な態度が目に余るようになっていきます。御家人はもちろん、頼朝に対しても非礼な態度をとるようになり、『吾妻鏡』では「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」と下馬の礼をとらなかったことが記されています。
また、同じく『吾妻鏡』には、平安装束の水干を巡って岡崎義実と殴り合いのケンカになりそうだったとも記されています。大きな力を有しているとはいえ、このような振舞いによって多くの者から反感を買ってしまったのかもしれません。
謀反の疑いをかけられ……
横暴な態度が裏目に出てしまったのか、広常は謀反の疑いをかけられ、暗殺されてしまいます。暗殺から暗殺後の出来事についてみていきます。
誅殺と所領の没収
寿永2年(1183)12月、頼朝は広常が謀反を企てたとして、梶原景時と天野遠景に命じ、景時と双六に興じていた広常を謀殺します。嫡男の上総能常は自害し、上総氏は所領没収となり千葉氏や三浦氏などに分配されました。
届いた一通の書状
横暴な態度が目に余った広常でしたが、本当に謀反を企てるような人物だったのでしょうか。それを覆すエピソードがあります。
寿永3年(1184)、広常の鎧と一通の書状がみつかり頼朝のもとへ届けられます。書状の内容には、3年のうちに神田二十町を寄進すること、3年のうちに神殿の造営をすること、3年のうちに万度の流鏑馬を射ることという計画が書かれ、すべては頼朝の祈願成就や東国泰平のためであると記されていました。謀反を企てる人物が書いたものとはとても思えない願文を目にした頼朝は、激しく後悔したといわれています。
これを受け、捕らわれの身となっていた広常の弟である天羽直胤や、相馬常清らはすぐに釈放されました。しかし、没収された所領は返還されることなく、広常が務めていた房総平家の当主は千葉氏が継承しています。
上洛した頼朝の返答
建久元年(1190)にはじめて上洛した頼朝は、後白河法皇との対面の際に広常の一件を問われています。広常を味方につけたことで、東国を打ち従えることができたと話しながらも、頼朝は「平家政権を打倒することよりも、関東の独立を望んでいたため殺させた」と返答しました。
頼朝は平家を打倒し、朝廷との協調路線もしくは朝廷の傘下に入ることで東国政権を図ろうとしていました。朝廷の傘下に入らず独立することを主張していた広常を殺害したことで、頼朝がつくる政権の方向性が確定したと考えられています。
本心が伝わりづらい人物だった
平家の流れを持つ家系でありながら、源氏に味方した広常。最大級ともいえる戦力や兵力で頼朝を助け、鎌倉幕府樹立に多大な貢献をした人物といえます。しかしながら、頼朝の命で最期をむかえた人物でもあり、皮肉な運命を辿った人物だったともいえるでしょう。広常は日頃の横暴な態度から誤解されやすく、奥底にある本心が伝わりにくい人物だったのかもしれません。