2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の舞台を訪ねる聖地巡礼。その後編として、今回は頼朝の事実上の旗揚げ戦「石橋山の戦い」の古戦場をはじめ、北条義時の兄・宗時の墓や、房総半島に伝わる頼朝の上陸地などをめぐってみた。
治承4年(1180)8月、ついに平家打倒の兵を挙げた源頼朝。北条時政・義時親子や土肥実平など伊豆・西相模の武士の合力で山木兼隆を破り、鎌倉をめざして進軍した。そして、相模での最初の戦いとなったのが「石橋山」だ。これに対するは大庭景親が率いる3000の兵。頼朝軍はわずか300であったが、東からは味方の三浦義澄の軍勢が加勢する予定であり、大庭軍を挟み撃ちしようという狙いだった。しかし、三浦勢の遅れもあり、もろくも敗北。頼朝は土肥実平たちに守られ、どうにか逃げ延びた。
石橋山から宗時の墓へ
戦いの舞台となった石橋山は、神奈川県小田原市の海岸沿いにある。JR早川駅と根府川駅のちょうど真ん中あたりのところで、両方の駅から3~4キロほど。車もしくは歩きでテクテク行くと、古戦場を示す石碑が崖の斜面にポツンとある。振り返ると、線路越しに美しい相模湾が広がっている。頼朝たちも、このような景色を見たのだろうか。
そこから石橋山の山中へと登っていくと、佐奈田霊社(さなだれいしゃ)がある。ここは、石橋山の戦いで討死した佐奈田与一(さなだよいち)を祀る聖地だ。与一は、俣野景久(大庭景親の弟)と組み討ちとなり、首を掻こうとするが、刀が抜けない。それまでに切った敵の血糊が付いていたからだ。その隙に、与一は駆け付けた敵方に討たれてしまった。25歳であった。のちに頼朝は石橋山の山頂に葬られた与一の墓を訪れ、涙を流して供養したという。
そうした理由から、この地には佐奈田霊社が建てられた。神社でもあり、寺でもある神仏習合の「霊社」で、廃仏毀釈で破壊されなかった歴史を持つ、稀有な聖地といえよう。組み合いのさなか、与一は痰がからんで声が出ず助けが呼べなかったという言い伝えがあり、そのために喉の痛みや喘息に霊験があるという。筆者も昔、喘息もちだった。せっかく参拝したので御霊苻と、喉に効くという「佐奈田飴」(500円)を購入させていただいた。
さて、この戦いでは佐奈田与一らのほか、頼朝にとって身近だった武士が命を落としている。北条宗時である。宗時は、父の時政や弟の義時と別行動をとり、平家方に討たれてしまった。ドラマでは、それと少し違った展開で描かれるが、ともかくも義時の兄はここで敢え無く最期を遂げた。そんな宗時の墓がJR函南駅(静岡県田方郡函南町)の近くにある。
函南駅から少し西へ歩いたところ、高台に「宗時神社」がある。神社といっても、今は簡素な小屋が一棟、その前に大小二つの墓石が建つだけ。大きな墓石が宗時、小さな墓石が、同年に没した狩野茂光の墓だそうだ。『吾妻鏡』によれば建仁2年(1202)、北条時政が、夢のお告げに従って当地を訪れ、亡き我が子の追善供養を行なったとある。おそらく義時も訪れただろう。古びて苔むした墓石は、宗時が討死したときに建てられた当時のものだろうか。安らかに眠ってほしいと願い、手を合わせた。
逃げた頼朝は、どこに隠れていたのか?
さて、石橋山から逃れた頼朝は、土肥実平らに守られて椙山(すぎやま)へ逃亡。現在の湯河原(神奈川県足柄下郡)にあるという「しとどの窟(いわや)」に身を隠した。湯河原の山中に、昔からそう伝わる岩窟がある。そこは今も鬱蒼とした山林のなかにあり、捜索にきた梶原景時が頼朝を見つけるも、見なかったことにして助けたという『源平盛衰記』に描かれた情景を想像させる。
実は「しとどの窟」と伝わるものは、同じ足柄下郡に、もう一ヵ所ある。それが真鶴(まなづる)港にある「しとどの窟」だ。昔から、どっちが本物なのか論争もあったというが、おそらく頼朝は、一ヵ所に留まらずに隠れながら真鶴の海岸へ移動したはず。よって、どちらも正解で良いのではないだろうか。
真鶴の「しとどの窟」は、湯河原のものに比べて規模が小さく、パッと見は疑わしくも感じられるが、さにあらず。今は数メートルもない洞窟だが、頼朝の時代には130メートルもの奥行きがあったという。しかし、歳月を経て波に削られ、江戸時代の末期には奥行き11メートル程度になる。さらには第二次世界大戦でも飛行場をつくるための石が切り出されてしまい、今の規模まで縮小したという。扉の奥は、今やわずか数メートル程度の洞穴だ。
大正時代の写真を見ると、海に面した不気味な洞窟といった面影があり、まさに頼朝はここに隠れたような気配を感じる。大庭景親の追跡を振り切った頼朝は、ここから少し北にある、真鶴の岩海岸から舟を漕ぎ出し、海路を進んで房総半島へと逃れていく。
岩海岸は、現在は海水浴場として有名で、夏は大いに賑わうところだ。冬は実に静かなところで、当時もこのような情景だったかと想像させる。ともかくも頼朝は三浦半島を横目に、房州をめざした。さて、私も真鶴から千葉へと移動し、その足跡を追っていこう。さすがに舟では渡れないので、東海道線・総武線・内房線を乗り継いで、相模湾から東京湾をぐるりと回り込んだ。
列車旅のお供として、小田原駅で「大船軒の押寿し」4種詰合せを購入して、グリーン車でいただく。「鎌倉殿の13人」のタイトルロゴと義時のイラスト入り。掛け紙の裏には、13人にまつわるすごろくが印刷されている。これは、なんとも嬉しいコラボだ。
頼朝の上陸地2ヵ所を訪ねる
頼朝が、真鶴を舟で離れたのが治承4年(1180)8月28日。舟は順調に進み、翌29日に安房の国・房州の平北郡猟島にたどり着いた。すでに北条時政・義時らも着いており、みな再会を喜んで、今までの苦労が泡のように吹き飛んだ、と『吾妻鏡』は伝えている。
房州にも、頼朝が上陸したという場所は2ヵ所、存在する。最初に紹介するのは先の『吾妻鏡』にある、猟島(りょうじま)。その地名から島と思われがちだが、現在の安房勝山駅の近くに位置する、竜島(りゅうしま)海岸がそれである。へとへとになった頼朝一行は、ここに上陸して一息つき、義時らと再会を喜び合った。想像力を働かせ、困難を乗り越えた彼らの労苦を思う。
この海岸の北端に「源頼朝上陸地」と刻まれた碑が建つ。この碑がなければ、この海岸が歴史名所であるということには気づくことができないだろう。それほどに、今は何もない海岸なのである。碑のまわりをウロウロしていたら、人懐こい猫が「にゃあ」と鳴いて足元にやってきた。このあたりの釣り人から、よく餌をもらっているのだろうか。平安時代には、すでに貴族たちが猫を飼っていたようだが、このような野良猫もいたのだろうか、などと想像してみる。
安房勝山駅へ戻り、そこから館山へ向かう。もうひとつの上陸地と伝わる場所を見にいくためだ。房総半島も広い。館山駅に着いて、まず駅前でレンタサイクルを借り、それで洲崎(すさき)をめざすことにした。バスも良いが、本数が少ないため、サイクリングもおすすめだ。館山駅から海岸線を40分ほど走っただろうか。正面に洲崎灯台が見えてくるあたりで、左手に建つ小さな碑と井戸が視界に入った。
「源頼朝公上陸地」と、こちらは「公」の入った文字が石碑に刻まれている。その脇に、屋根に覆われた小さな古井戸がある。頼朝ゆかりの「矢尻の井戸」というそうだ。上陸した一行が飲み水に困ったので頼朝が鏃を地面に刺したところ、泉が湧き出たという伝承が残る。
「上陸地については吾妻鏡が鋸南町竜島、源平成衰記と義経記が洲崎説をとっているが、洲崎上陸を信ずる。」と、この碑を建てた有志の方の力強い文言が印象的である。海流の関係で、この洲崎の岬に頼朝一行が流れ着く可能性は大いにあった。また、先の猟島(竜島)にたどり着いたとしても、また海路をとって、この洲崎に上陸したことも考えられよう。先の「しとどの窟」と同様、どちらも正解で良いという気がする。
ともかくも、無事に房州へたどり着いた頼朝。平家への反感もあり、頼朝の支持者は少なくなかった。そして、この房総の有力者であった上総広常と千葉常胤を味方につけたことで、勢力は大きく膨れ上がった。頼朝は次々と諸勢力を味方につけ、武蔵から相模へ、そして鎌倉をめざして進軍する。
その頼朝が、房州滞在中に戦勝を祈願したと伝わるのが、先の井戸から海岸沿いに南下したところにある「洲崎神社」(すのさきじんじゃ)だ。房総半島の南端、西側に突き出た御手洗山にある。漁の神、航海の神として漁師や船乗りから厚く信仰されてきた、館山の一之宮である。我々は、頼朝が勝利者となったことを知っているが、このときの頼朝は敗残軍の将。神にすがる思いで参拝したのかもしれない。
150段ほどの長い石段をのぼり、本殿・拝殿に到着。参拝を済ませ、しばし高台から海を眺める。はるか800年ほど前、頼朝や義時も、ここから伊豆半島のほうを見やったことだろう。頼朝はここで再起ののち、鎌倉へ入り、5年におよぶ平家追討の指揮をとる。いわば房州は、その始まりの地。ここに来て、より深く実感できた。
もう夕方近くになって、駅前の館山城公園まで戻る。館山城は戦国時代の里見家の居城で「里見八犬伝」でも有名だ。今回は時代が異なるので、眺めるだけにしておいて、公園内にある「里見茶屋」にて、房州里見だんごを食す。花より団子というわけである。むかし大人気だった「やちおばあちゃん」の茶店の味を受け継いでいるそうで、とてもふっくらしていて、素朴で懐かしい味だ。その甘味が、旅の疲れを優しく解きほぐしてくれた。以上、石橋山から頼朝再起までの舞台の様子をお届けした。 あなたも「鎌倉殿の13人」の聖地の旅に出てみては?
(文・上永哲矢/歴史随筆家)