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【源頼朝の死因】鎌倉幕府をつくった初代将軍の死の謎に迫る

【源頼朝の死因】鎌倉幕府をつくった初代将軍の死の謎に迫る

源頼朝といえば、鎌倉幕府をつくった初代将軍としてよく知られています。しかし、その死因については謎が多く、はっきりとしたことがわかっていません。そこで今回は、源頼朝の死因について、よく語られる4つの説をご紹介します。

源頼朝とは

まずは、源頼朝の生まれや鎌倉幕府をつくった経緯についてご紹介します。

源氏の棟梁、源義朝の三男

頼朝は、河内国(現在の大阪府の一部)を拠点とする河内源氏の棟梁であった源義朝の三男として生まれました。清和天皇を祖とする清和源氏の流れを汲んでいて、源義経は異母弟にあたります。頼朝は母・由良御前の身分が高かったため、三男であったにもかかわらず家督を継ぐ者として育てられました。

しかし、父・義朝は平治の乱で敗れ、落ち延びる最中に殺害されてしまいます。頼朝は子どもだったこともあり、命こそ助けられるものの、伊豆国(現在の静岡県)蛭ヶ小島へ島流しとなりました。この伊豆の豪族であったのが北条時政であり、頼朝はその娘・北条政子と出会い、政子からの猛烈なアタックの末に結婚します。

征夷大将軍となり、鎌倉幕府をつくる

中村不折による源頼朝像

その後、治承4年(1180)に以仁王から打倒平家の令旨が下ると、これに応えて挙兵。伊豆を制圧したのを皮切りに関東へ向かい、鎌倉を拠点として相模国や房総半島の勢力を制圧、関東を平定します。その後は平家を打倒し鎌倉幕府をつくり、自分と対立する勢力と見なした義経を追討しました。

源頼朝の死因とは?

鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、建久6年(1195)12月22日、若い頃からの友人の家に遊びに行った、という記述を最後に、突然建久10年(1199)2月6日、源頼家(頼朝の長男)が征夷大将軍となった、という記述が出てきています。つまり、頼朝の晩年に関して記されていないのです。

頼朝の死因が隠されたのか、たまたま残らなかったのかは不明ですが、死亡した日付については日記が残っており、建久10年(1199)1月13日である説が濃厚です。頼家もこれを受けて将軍位を継いだものと思われます。ただし、死因についてははっきりとした史料が残っておらず、さまざまな説があります。ここでは、死因の中でも主たる説を4つご紹介します。

落馬説

現在、最も有力とされているのは「吾妻鏡」の記述に残る建久9年(1198)12月27日の落馬説です。前述で「吾妻鏡」に直接の記述はないと話しましたが、その当時の記述がないだけで、これは3代将軍である源実朝の時代に振り返りとして記されたものです。

その内容は、建暦2年(1212)年2月28日、相模国(現・神奈川県)を流れる相模川にかかる橋が壊れていて、地元に住む民が困っているという陳情が届いた、というもの。この橋は13年前に完成し、頼朝が落成供養に訪れたのですが、帰り道で落馬してしまったと記されています。

頼朝は落馬から2週間後に死亡したため、橋自体、縁起が悪いとして避けられていました。しかし、実朝は縁起を担ぐのではなくそこに住む民の不便を解消しようと、新たな橋をかけようと決める、と話は続いていきます。

ここでも頼朝の死と落馬の直接的な関係は不明ではありますが、落馬の際に頭を打ったなどの外傷があり、それが元で亡くなったという説、落馬するほどの意識障害などを起こした説があります。

ちなみに、頼朝は鮭の燻製が好物だったとされていますが、鮭の燻製は塩分が高く、塩分の摂り過ぎは高血圧から心血管系の病気を発症しやすいことがわかっています。先ほど触れた「落馬するほどの意識障害」は、脳血管障害が原因とも考えられます。

糖尿病説

頼朝の死の日付を書き残した京都の公家の日記は複数ありますが、そのうちの一つである「猪隈関白記」によれば、「前右大将頼朝卿、飲水に依り重病」という記載があります。「飲水」とは文字通り水を飲むことですが、水を大量に欲する状態になる病気ということで、現代の糖尿病のこと指しているのではないかと考えられています。

平安時代はまだまだ医学も発展しておらず、食事で何を摂取すれば健康に良く、何を摂取すれば健康に悪いかなどということもほとんどわかっていませんでした。したがって、偏りの多い食生活を送る貴族は糖尿病にかかる人が多く、頼朝も例外ではなかったのでしょう。

もちろん当時は糖尿病という病名はありませんでしたので、水をあまりにもがぶがぶと飲む様子から「飲水の病」と呼ばれていました。糖尿病が悪化すると脳梗塞や視力低下などにもつながるため、これが死因だったとも考えられます。

亡霊説

頼朝はその生涯で、さまざまな政敵と戦い、相手を死に追いやったことも少なくありません。「保暦間記」や「北条九代記」によると、前述の落成供養の際に、

  • 八的ヶ原で異母弟の源義経、叔父の源行家の亡霊が現れ、それに驚いた馬が暴れだして落馬した
  • 稲村ヶ崎に差し掛かったところで、頼朝の目の前に壇ノ浦に沈んだ安徳天皇の亡霊が現れ、失神して落馬した

等の内容が記されています。

当時は亡霊という考え方が一般的でしたが、これを現代的に考えると、何らかの脳血管障害によって幻覚を見たという可能性も考えられます。また、精神医学の面から見ても、いわゆる独裁者がそれまで犠牲にしてきた者たちに罪悪感を抱き、疑心暗鬼の状態になるのは珍しいことではありません。頼朝は兄弟や親戚であっても、自分に楯突く存在は殺すか服従させるかでした。精神症状の一種として幻覚を見て「亡霊」と表現した、ということも考えられます。

暗殺説

頼朝の落馬説は後から書かれたでっち上げであり、実は暗殺されたのだ、という説も存在します。晩年、頼朝は娘を後鳥羽天皇に嫁がせようとしては失敗を繰り返しています。これは、藤原道長や平清盛が人望を失ったのと同じ流れであり、武士たちからの不興を買って暗殺されたのでは、という説です。

また、鎌倉幕府の実権を握りたかった北条家に暗殺された、という説もあります。「吾妻鏡」に記述がないのは、北条執権体制が確立してから書かれた歴史書であることから、北条氏に都合が悪いことは隠されているためではないか、とも考えられています。

さまざまな謎に包まれた頼朝の死因

鎌倉幕府を築いた頼朝の死因は、今も謎に包まれています。現在最も有力視されているのは落馬説ですが、それも落馬が直接の原因なのか、落馬するほど何らかの病が進行していたのかで意見が分かれています。さらに、暗殺されたのではないかという説もあり、裏付ける史料が発見されていないことから、謎は深まるばかりです。このような謎の多さも、頼朝が今なお魅力的な武士のひとりである理由なのかもしれません。

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