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【 市民が盆踊りを踊らない理由 】国宝・松江城に伝わる人柱伝説

【 市民が盆踊りを踊らない理由 】国宝・松江城に伝わる人柱伝説

島根県松江市のシンボルとしてそびえる松江城。2015年7月に国宝として指定されました。
江戸時代初期に建築された4層5階の天守をはじめ、櫓や塀の外壁は大部分が黒塗りで、実戦を意識した質実剛健な雰囲気が漂っています。

松江城は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで徳川家康に味方し、論功行賞で出雲24万石を与えられた堀尾吉晴、忠氏の父子が宍道湖のほとりにある標高28メートルの亀田山に築きました。その優美な姿とは裏腹に、この城には悲しい伝説が残されているのをご存知でしょうか。

松江城に伝わる「人柱伝説」

積んでは繰り返し崩落する天守台の石垣。
人柱を立てればうまくいくのでは、と考えた堀尾家の家臣たちは、盆踊りに集まった人々の中から踊りの上手な美しい娘を連れ去り、天守台に生き埋めにしたといいます。石垣は無事完成しましたが、それからというもの城下で盆踊りをすると天守が揺れるという怪異が発生。
人柱にされた娘のたたりとのうわさが領内に広まり、以来、松江では盆踊りを踊らなくなったといいます。

妻・セツからこの物語を聞いた小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)が書き記したのが「人柱にされた娘」です。

小泉八雲

小泉八雲

別の言い伝えでは、人柱に立ったのは娘ではなく虚無僧で、天守から夜な夜な尺八の音色が聞こえてきたともいいます。

また、工事が思うように進まないことに業を煮やした吉晴が築城の名人を招いて調べさせると、石垣が崩落した場所から槍の貫通した頭蓋骨が出てきたため、吉晴は祠を建てて丁重に供養したともいいます。

どれも不思議な話ですが、最近の研究によると城郭建築で人柱が立ったと証明されたケースはなく、実際は人形やお札などで代用されたようです。
松江城でも人柱も裏付ける史料は確認されていません。

では、なぜ人柱伝説が語り継がれたのでしょう?

人柱伝説が語り継がれた理由

松江城の完成は慶長16(1611)年ですが、吉晴、忠氏の父子はそれまでに相次いで死去。
このうち忠氏は領内の見回り中、とある神社の禁足地に1人で入り、その直後に27歳の若さで謎の死を遂げました。

3代目の忠晴は跡継ぎのないまま寛永10(1633)年に死去したため、堀尾家は断絶。
続いて松江城に入った京極忠高は三の丸を完成させますが、数年後に亡くなり、京極家もお取潰しに。

相次いで藩主を見舞った不幸は、当時の人々にとっては受け入れがたい怪異でした。
軟弱地盤に悩まされた松江城の工事と結び付き、多くの伝説がそうであるように一連の出来事を「娘のたたり」と考えることで納得をしたのでしょう。

また昔の盆踊りは男女が出会う場だったので、「風紀が乱れる」との理由で禁止されたこともありました。
松江藩でも何らかの理由で盆踊りを禁止するため、人柱伝説と絡めて禁忌(タブー)としたのかもしれません。

伝説には続きがあります。

京極家の次に徳川家康の孫に当たる松平直政が松江藩主となりましたが、天守には人柱に立った娘の亡霊が現われ、直政たちを悩ませます。
ある日、直政が娘の亡霊に「何者か?」と問うと、「この城の主」と答えました。そこで湖で捕まえたコノシロ(この城)を供えたところ亡霊は姿を見せなくなり、松平家は幕末まで10代続きました。

このエピソードには、人々が恐れていた亡霊を退散させたことを示すことで「松平家の統治こそが正当」と領民に知らしめる意味があるようです。

ちなみに松江市役所に問い合わせたところ「昔ながらの城下町エリアでは今も盆踊りはしていない」とのこと。
理由を聞くと「人柱の伝説があるので」との答えでした。昔からの取り決めを律儀に守っているところに松江市民のきまじめな気質が垣間見えてきます。

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