武田軍が湯治場として公認していた開湯1200年の歴史を誇る「ぬる湯」の温泉地
「風林火山」の旗のもと、戦国最強をうたわれた軍を率いた武田信玄。信玄の主な領地といえば甲州・信州、つまり現在の山梨県、長野県にあたるが、この地方には昔から温泉が多く湧き出ている。
中には「武田信玄の隠し湯」と呼ばれるところも多い。信玄は温泉を利用し、自身や将兵の戦傷を癒したという伝承があるからだ。それらがすべて本当なのかといえば疑わしく、「隠し湯」というフレーズを単に宣伝文句として使っている温泉地もあるようだが・・・
実際に武田家および信玄との深い関わりを、史料や文書で示す温泉地もいくつか実在する。そのひとつが山梨県・下部(しもべ)温泉だ。9世紀前半に発見されてから実に1200年以上の歴史を持ち、戦国時代に武田家の管理のもと、温泉保養地として利用されるようになった。
温泉街で随一の老舗が『古湯坊 源泉館』。現当主の依田茂さんは湯守として58代目。温泉宿としては江戸中期から営業を始めたので8代目を数えるという。(写真は湯治場がある別館の建物)
この旅館には、武田家との関係を示す数々の古文書が伝わる。武田晴信(のちの信玄)、信玄の父・信虎、家臣の馬場美濃守(信春)、穴山信友が記したものが1枚ずつある。現物は400年以上も前のものなので別の場所に保管されているが、宿本館のフロントに、それらのコピーが展示公開されている。
馬場の書状は、当地を治めていた石部氏に対し「川中負傷兵の治療に絶大な効果があった」という感謝状の形になっている。信玄の父・信虎は、同じく当地を治めていた佐野氏に対し、この下部温泉を湯治場として認める内容のもの。武田家が彼らに湯治場の統治を許可・任命していたことがわかる。
その中に「晴信」(信玄)の署名と花押が入ったものがある(写真右)。「永禄四年九月二十八日」という日付が記されていることに注目。永禄4年(1561)といえば、かの有名な「第四次・川中島の戦い」が行われた年で、この年の9月9日から10日にかけ、信玄は上杉謙信と戦った。
一説によれば信玄はこの戦いのさなか、謙信あるいはその影武者に肩を斬られ傷を負ったとされる。謙信との激闘を終えた信玄は、傷ついた将兵に湯治を命じた。信玄自身は甲府に近い湯村温泉で治療したといわれ、下部まで足を運んだ記録はないが、川中島で負傷した将兵がここを訪れたのだと思うと感慨深い。
この下部温泉には「湯之奥金山」の跡がある。現在こそ金の産出は止まっているが、武田家全盛の頃はこの金山も活況を呈しており、採掘に携わる人足たちが温泉で疲れを癒したことはいうまでもない。武田家の滅亡後は徳川家の支配のもとで賑わいを見せ、江戸時代の中ごろから、一般客も訪れる湯治場へと発展したという。
さて、武田軍の将兵の傷を癒したとされる源泉は『古湯坊 源泉館』の別館にある混浴の大浴場に湧く。当時と変わりなく、大岩風呂の足元の岩盤から温泉が自噴し続けている。(大岩風呂の写真は旅館提供)
泉温は約30度という「ぬる湯」なので、入ってみると本当にぬるく感じる。すぐ隣に加温した温かい湯舟(上り湯)があるので、まずはそっちで温まってから源泉の湯舟に入る。交互に浸かると気持ちがいい。
ぬるい温泉には長湯しやすいというメリットがあり、結果的に体がよく癒される。怪我や骨折をした人や足腰の弱った人がリハビリに多く訪れているようで、私が訪れたときの先客には1時間も浸かりっぱなしの人もいたぐらいだ。
『古湯坊 源泉館』以外の宿も、やはりこの温泉地独特の「ぬる湯」を引いており、ゆっくり入浴を楽しみたい人に勧めたい。信玄公認の名湯は、派手さ、賑やかさのない静かな湯治場として今も多くの人々に愛されている。
(文・写真/上永哲矢【哲舟】 歴史コラムニスト)
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