カレーと武士の出会い その2 初めてカレーを記録に残した23歳の幕臣【哲舟の「偉人は食から作られる!」 VOL.16】

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福澤諭吉がカレー、ではなく「Curry」(コルリ)という単語を日本へ伝えてから3年後、1863年(文久3年)、あの新選組が誕生した年のこと。

 

江戸幕府による遣欧使節団が横浜港を出て、フランスへ向かっていた。攘夷を唱える孝明天皇をなだめるため、開港した横浜をもういちど閉鎖するという交渉のためだ。

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【スフィンクス前で写真を撮った横浜鎖港使節団】

 

途中でエジプトに立ち寄り、スフィンクスの前で写真を撮った武士たち、といえば、彼らをご存じの方もいるだろう。

 

34名の使節団の代表は、旗本で外国奉行の池田長発(いけだ・ながおき)。28歳。江戸時代とは思えぬイケメンであるばかりか、成績も極めて優秀なエリート侍だった。

 

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【池田長発(筑後守)。備中・井原池田家の10代目当主。】

しかし、長い船旅はこのエリートを苦しませた。フランス船の中には洋食しか用意されておらず、それが日本人一行の口に合わなかったからだ。池田も連日、青白い顔をしていたという。

 

空腹に耐えかねた池田は、同行していた理髪師に「米が食いたい」とこぼした。すると、理髪師は「こういうこともあろう」とばかり、密かに持参していた米を取り出す。

 

一行は大喜び。しかし、米を炊く水がないので船に命綱を結んで海水を汲み、飯を炊いた。塩辛い粥(かゆ)になったが、池田らは満足してガツガツ平らげたという。

 

このような道中、やはり食事に難儀していたのが、23歳の岩松太郎である。この青年武士がカレーライスを目撃し、日本人として初めて記録に残した人物といわれている。(16歳の三宅秀という説もあり)

 

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【カレーを目撃した岩松太郎】

 

太郎は、船に乗り合わせたインド人らしき一行が食事する様子を奇妙な目で見た。その時の様子を『航海日記』にこう記している。

 

「脇より見るに、飯の上ヘトウガラシを切ったもの、どろどろしたイモのようなものをかけ、これを手で混ぜて食す、いたって汚きものなり」

 

これが、武士とカレーライスとの最初の出会い。現代語に直すと「うわ、きったねぇ食い方だな~」といったところ。汁かけ飯を手で食べるという光景は、最悪の印象だったようである。

 

このように当初は食べ物に不自由した一行だが、徐々に慣れ、パンやシャンパンなどを気に入り、好んで口にする者も増えていった。

 

5ヵ月後、パリに着いた一行は皇帝ナポレオン3世に謁見。リーダーの池田はフランスの政治や文化に触れると攘夷がバカバカしくなり、開国派に転じ、交渉する気もなくなったそうだ。

 

横浜鎖港の交渉も失敗に終わったが、日本人がヨーロッパに残した貴重な足跡として歴史に名をとどめることになった。上の人物写真は、みなフランスの写真家ナダールの手で撮影されたものだ。

 

日本にカレーライスが普及するのは先のことだが、武士とカレーの物語、まだまだあるのでもう少し綴っていきたい。(次回へ続く)

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tesshu

上永哲矢(うえなが てつや) 通称:哲舟。歴史コラムニスト、フリーライター。

『時空旅人』『歴史人』などの雑誌・ムックに、歴史や旅の記事・コラムを連載。

三国志のほか、日本の戦国時代や幕末などを得意分野とする。

イベント・講演にも出演多数。神奈川県横浜市出身。

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