天正10(1582)年6月2日、戦国の覇王・織田信長が家臣・明智光秀の謀反によってこの世を去りました。
この「本能寺の変」から数日後、中国征伐の途中だった羽柴秀吉が一気に軍勢を畿内へ引き返し、「山崎の合戦」で光秀を討ち取ると、信長の後継者として破竹の勢いで天下統一へまい進する・・・日本人なら誰もが知っている、歴史の流れでしょう。
「本能寺の変」に関してはいまだに謎が多く、黒幕が別にいて光秀を動かしたとする説(家康や秀吉、足利義昭、さらには朝廷なども黒幕候補とされています)が出るなど、好奇心をくすぐる事件であることは間違いありません。
本能寺の変、死んだのは信長だけではなく・・・
「織田家って信長以降どうなったの?」
こんな疑問を持つ方は少なくないはずです。確かに学校で使うような教科書では「本能寺の変」以降、あまり目にすることがないですよね。ですが、江戸時代まで大名として生き残りました。
信長の次男・信雄と、13歳離れた弟・長益(有楽斎)の系統です。
とは言え、往時の勢いはなく、細々とですが・・・。その原因のひとつが、信長とともに嫡男・信忠も死んでしまったことによります。
信忠は天正10(1582)年当時、26歳(諸説あり)。
すでに父・信長から織田家の家督を受け継いでおり、正統な後継者として磐石な地位を築いていました。
その信忠は「本能寺の変」前夜、京都・本能寺から程近い妙覚寺に宿泊しました。信長が光秀に襲われたと知ると、信忠は逃げ出すことなく信長の救出に向かおうとしました。しかし、本能寺が焼け落ちたと知ると、二条城へ移動し籠城、奮戦むなしく自害したのです。
もし織田信忠が生きていたら・・・
もしも信忠が二条城へ向かわず、安土城へ退却していたら・・・。
実は光秀も戦力に余裕があったわけではなく、妙覚寺に兵を割いていなかったのではないかといわれています。もしかすると、信忠が京にいたことを気づいていなかったのかもしれません(あるいは、眼中になかったのかもしれません)。
そうであるならば、逃げ延びる可能性も無くは無かった・・・そう考えてしまいますよね。
付け加えると、堺を観光中だった家康は光秀と戦うことなく逃げだしました。もちろん少数の兵しか伴っていなかったことによるものですが、家康は後年天下を獲ることとなります。
信忠がいなかったが故に、その後の織田家の趨勢は一気に決まったといっても過言ではありません。
その後、織田家の跡継ぎを決める「清洲会議」では、家中が分裂しました。
信長の三男・信孝を推す重臣・柴田勝家と、嫡孫・三法師(のちの秀信)を推す秀吉が対立、敗れた勝家と信孝が自害する結果となるのです。
とは言え、三法師は当時2歳。物事を判断できる年齢ではありません。秀吉が、三法師、ひいては織田家を踏み台にしていったとも言えるのではないでしょうか。
仮に信忠が生き延びて、この会議に臨んでいたら(あるいは、会議そのものの必要性がなかったかもしれませんが)、信忠が織田家をまとめていたでしょう。
彼は、本願寺や武田征伐で武功をあげていましたし、血筋の必然性もあります。
そうであるならば、勝家と秀吉が争うこともなかったし、秀吉の政権簒奪もなかったでしょう。さらに秀吉の関白就任や家康の江戸幕府創設もなかったかもしれません。家康は秀吉によって、本領の東海地方から関東へ移封となっていますので尚更です。
信長は秀吉同様、交通の要衝・大坂に目をつけていました。
いずれは大坂城を築城していたでしょうが、現在の江戸城の姿はなかったはずです。
織田家は海外との交流を推し進めていましたので、もしかすると徳川政権による「鎖国」もなかったかもしれません。このように、信忠一人生き延びていただけで多くの事象が起きていない可能性があったわけです。
判断を誤って落命した信忠、判断が奏功して天下を獲った秀吉・家康。
「歴史のif」が存在するのであれば、信忠が存命した後の日本を見てみたいものですね。