歴人マガジン

【発掘されていた秀吉の遺体!】太閤の歯、秀頼の手形を伝える宝物館

【発掘されていた秀吉の遺体!】太閤の歯、秀頼の手形を伝える宝物館

徳川家康の墓がある日光や久能山(東照宮)を訪れる人は多いが、豊臣秀吉の墓を訪れたことがある人は、あまり多くないだろう。
ガイドブックにもほとんど載らないので、正確な場所を知る人も少ないのかもしれない。

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秀吉の墓「豊国廟」(とよくにびょう)があるのは、京都市東山区にある阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山頂。標高196メートルのところにあるため、とても長い階段を登らねばならない。
その昔、大河ドラマ『秀吉』(1996年)のオープニングで秀吉少年が駆け上がっていた、あの階段だ。

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段数は約500段。心して登らないと、途中で挫折してしまいそうなほどの長さ。やっとのことで登りきると、山頂に大きな五輪塔がある。これが秀吉の墓。
この下に秀吉の亡骸が今なお、長い眠りについているのだ。亡き太閤を偲び、そっと手を合わせたい。

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400年ちょっと前の慶長3年(1598)8月18日、京都の伏見城で亡くなった秀吉の遺体は、最初は阿弥陀ヶ峰の中腹に埋葬された。最高権力者が死んだ事実を伏せるため、密葬で済まされ、公表されたのは翌年4月。一説によると、遺体は公表まで伏見城内に安置され、それから埋葬されたともいう。

死後「豊国大明神」として祀られたが・・・

秀吉は「豊国大明神」として祀られ、以来神社では毎年、豊国祭が盛大に行なわれるようになった。
だが、慶長20年(1615)「大坂の陣」で豊臣家が滅亡すると、次の天下人となった徳川家康は秀吉の神号を廃し、神社の取り壊しを命じた。廟所や神社の参道も封鎖され、徳川幕府の政権下では参拝もできないようになってしまったのだ。

「そこまでしなくても・・・」と、家康を責めたくなる人もいるだろうが、あれほど苦労して滅ぼした豊臣家。その創業者をなお信奉する者がいては不都合と、家康が考えたのも無理はない。

ただ、せめてもの情けだったのだろう。家康は神社こそ破壊したが、秀吉の墓自体はそのままにしておいた。3代将軍・家光は豊国廟の再建を検討したが、幕臣たちの反対に遭い、取りやめている。
豊臣家への冷遇は将軍の意向というより、幕臣たちの意向だったのかもしれない。

秀吉、ミイラ化した状態で見つかる

そして江戸時代を経て、徳川幕府を滅ぼした明治政府は秀吉を顕彰するため、300年忌にあたる明治30年(1897)、豊国神社を再建する。
この時、山の中腹にあった秀吉の墓を改葬のために発掘すると、直径1メートルほどの壺が出てきた。その中には西向き(御所の方角)に手足を組んで座る、秀吉の半ばミイラ化した遺体があったという。

ところが運び出す段階で、工事関係者の不手際か、風化が進んでいた秀吉のなきがらはボロボロと崩れてしまった。その後、崩れた遺体を拾い集め、絹に包んで桐箱に入れ直し、山頂へと運んで丁重に改葬した。残念なことに遺体の詳細な調査は、行なわれなかったそうである(『豊太閤改葬始末』より)。

また、別の記録によれば秀吉の墓は元禄元年(1688)より前に盗掘に遭い、その時に副葬品はすべて盗まれてしまったという。実際、明治時代の発掘で副葬品は何も見つからなかった。
盗掘とは罰あたりだが、遺体が残っていたのは幸いだった。ともあれ、秀吉は没後400年以上が経った今も、京都の街を阿弥陀ヶ峰山頂から見守っている。

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さて、豊国廟から西へ約1キロ離れたところに、豊国神社がある。秀吉が没した当時の神社は徳川幕府に廃されてしまったので、こちらも明治30年の再建になるが、この唐門はもともと伏見城にあったものを移築した門と伝えられ、国宝に指定されている。

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見どころは宝物殿。ここには豊臣家や秀吉に関する名品・珍宝がたくさん収められている。秀吉直筆の書、日用品を収めた唐櫃、秀吉の三回忌に奉納された鉄燈籠など、重要文化財も多く含まれた貴重なものばかりだ。

これが「秀吉最後の一本」の歯!?

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そして、いちばん人目を引くのが「御歯」。そう、秀吉の歯である。
これは、秀吉が生前、賤ヶ岳七本槍のひとり加藤嘉明(よしあき)に形見として贈ったものだ。「お前に預けておく」という、自筆らしいお茶目な文面の手紙も、そばに置かれている。貴重なものだから、写真にあるとおり、嘉明は南蛮製の容器に入れて保管していたようだ。

前述の通り、秀吉の遺骨は調査されなかったが、歯一本からいろいろなことが分かった。この歯は、上あごの左側の奥歯(親しらずの一本手前の歯)で、表面が全体的に歯垢(しこう)で覆われているため、まわりに歯が無かったことを意味している。その状態から秀吉は歯槽膿漏に悩まされ、歯がボロボロの状態で、これが最後の一本だったと推定された。さらに血液型はO型だったことも分かった(医学博士・堀凖一氏の調査による)。

晩年、秀吉はひどく衰弱したようだが、歯が悪くて粥程度のものしか食べられなくなっていたのも、その原因かもしれない。
そういえば、真田信繁(幸村)も40代にして「歯が抜け落ちた」と書いた手紙がある。当時は歯ブラシなどなく、歯の掃除は楊枝で行なっていたから、虫歯になりやすかった。虫歯による栄養失調は、当時の人の寿命にも影響していたと思われる。

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最後に紹介するのは、息子・豊臣秀頼が父の肖像画に押した8歳の時の手形だ。眺めていると、まるで等身大の秀頼が見えてくるよう。父・秀吉を6歳の時に亡くした秀頼は、どんな思いでこの手形を押したのだろうか。

同じ天下人でも、家康を祀った日光東照宮に比べ、秀吉の豊国廟は飾り気もなく、訪れる人も極めて少ない。あまり観光地然となって欲しくはないが、参拝する人が増えてくれれば、派手好きだった秀吉も墓の下で喜ぶのではないだろうか。
訪ねる際、特に夏場はペットボトルの水と「虫よけ」を、くれぐれもお忘れなく・・・。

【文と写真:上永哲矢】

【豊国廟・豊国神社への行き方、場所などは下記参照】
■豊国廟
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=10&ManageCode=250
■豊国神社
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000182

※高野山奥の院にも豊臣家の墓碑がありますが、秀吉の墓碑は確認されていません。

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