9月13日は「乃木大将の日」といわれ、乃木希典陸軍大将が明治天皇の死に殉じたことで有名です。
かつては慕われた人物となるとそれは多くの殉死者を出しており、「殉死の禁」もありました。
こうした「殉死」はいつまであったのでしょうか。
最後の殉死と殉死の禁
乃木陸軍大将は大正元(1912)年9月13日、明治天皇の大葬が行われた日に夫人と共に殉死しました。
これが歴史上の偉人による殉死としては最後のものになるかもしれませんが、実はこれ以後も殉死はありました。
昭和64(1989)年、昭和天皇崩御の際に4人の男性が後追い自殺をしたと確認されており、これも殉死ということになります。そのため、最後の殉死とはこのことになるのでしょうか。
多くの殉死者を出した大名たち
江戸時代初期頃、主君が死ねば「追い腹」と言って重臣や寵臣が殉死することが多くありました。
4代将軍・徳川家綱により武家諸法度で禁止令が出される以前に亡くなった大名は、多くの殉死者を出しています。
確認できるだけでも、
島津歳久:27人
鍋島勝茂:26人
伊達政宗:20人
細川忠利:19人
もの殉死者が出たといわれています。(殉死者に殉死したという人数も含む)
鍋島勝茂は肥前佐賀藩の初代藩主で、関ヶ原では西軍から東軍へ転進しました。
伊達政宗については、家臣が15人、陪臣が5人ということです。政宗の墓所に彼らの墓もありますよ。
細川忠利は、細川忠興の息子です。
森鷗外の「阿部一族」は、彼の死にまつわるお家騒動を描いたものです。
島津歳久に関しては戦国真っただ中であり、兄に追われる途中で自害します。供の者たちがみな後を追ったため、これほどの人数になったのでしょう。
しかし寛文3(1663)年、4代将軍・徳川家綱による武家諸法度により「殉死の禁」が周知されました。この時期は、政治も儒学を取り入れた文治政治に移行するところで、旧来の武士的なものを排除していったのです。
以後、殉死の禁は大名家でも急速に広がっていきました。
主君を思う老臣の心
ほかにも殉死にまつわるこんなエピソードがあります。
真田信之(信幸)には、鈴木忠重という家臣がいました。幼いころ昌幸に養育され、出奔したこともありますが信之が再び受け入れ取り立てた者です。そのため、忠重は信之に大恩を感じていました。
ある時、2人は松代城の庭にある築山に登りました。すると信之が「若い頃ならこんな山は飛び越えられたのにな。死出の山とはこんな高さなのだろうか」と言います。
すると忠重は「死出の山がどんな高さだろうと、私があなたのお手を引いて差し上げますよ」と答えたそうです。
信之が92歳で亡くなった時、忠重は84歳になっていました。
そして、信之との生前の約束があるので殉死を許可して欲しいと幕府に訴えたのです。幕府は、それなら仕方がない、高齢でもあることだし・・・ということで特例として殉死を認めたのだそう。
忠重が信之の手を引いて、死出の山を越えて行ったのでしょうか。
忠重の墓は、今も信之の墓の隣で主君を守っています。
一方、「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱は、徳川家光の死に殉じなかったことを非難されました。しかし信綱は、家光から家綱の補佐を頼まれたことと、恩を受けた者がみんな殉死してしまったら誰が徳川家を支えるのかと反論したそうですよ。
確かにこれももっともな言い分です。だからこそ殉死が禁じられたのですよね。
殉死と言えば武士道的には美しくカッコいいものかもしれませんが、優秀な家臣が亡くなってしまっては、次の世代が困るということもあったのですね。
生きて菩提を弔って欲しいのが個人的な心情でもありますが・・・皆さんはどう思いますか?
(xiao)
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