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【流罪は死罪より重い?】歴史上で多く選ばれた流刑先と奇跡の大逆転劇

【流罪は死罪より重い?】歴史上で多く選ばれた流刑先と奇跡の大逆転劇

大河ドラマ「真田丸」にもありましたが、真田昌幸・信繁父子は九度山(和歌山県)に、西郷隆盛などは生涯に2度(奄美大島と沖永良部島)と、流刑となった偉人が多くいます。
しかしその歴史を紐解いてみると、流刑先って結構同じ場所が選ばれていますよね。それはなぜでしょうか?

日本の人気(?)流刑先

歴史上有名な人物の流刑先を簡単にチェックしてみると、
1位は伊豆(源頼朝、日蓮など)
2位は土佐(法然など)
3位は佐渡(順徳上皇、日蓮など)

・・・といった感じになるようです。

他にも隠岐や薩摩、常陸、阿波、越後といった場所が流刑地とされましたが、特に伊豆や佐渡は多かったそう。
さて、それはなぜなのかということですが、それは日本の律令制度から始まります。

政権中枢であった畿内から罪人を遠ざけるということで、①近流(越前や安芸など)・②中流(信濃や伊予など)・③遠流(伊豆・隠岐など)というふうに3段階に分かれて流刑にしていました。罪が重く、身分が高いほど遠くにやられたそうです。

当時、流刑は非常に重い罰でした。場所によっては環境が悪く、食べるにも事欠き、今までのコネクションなど一切通用しなかったからです。
そのため、政治犯となった政権中枢の人物や貴人などは遠流になることが多く、伊豆や佐渡、隠岐に流されたのですね。

流刑地で文化が栄えた!?

政治犯となれば、文化レベルが当時のトップクラスの人たちも多くいました。彼らが人生の残りを過ごした場所には、おのずと最先端の教養・文化がもたらされることになったようです。

例えば、佐渡には承久の乱で敗れた順徳上皇、鎌倉幕府を批判した日蓮、能を大成した世阿弥などが流されてきました。順徳上皇は和歌を好んだ風雅の人でしたし、日蓮は「立正安国論」で幕府と他宗を批判し、佐渡でも他宗の僧たちと丁々発止の議論を戦わせました。こうした彼らの思想や文化は佐渡の人々に浸透したはずですし、実際、世阿弥の能は佐渡と深いつながりを持つようになり、今も多くの能舞台が現存しています。佐渡には日本国内の能舞台の3分の1があるそうですよ。

世阿弥ゆかりの地に建つ「堀記念 金井能楽堂」
参照元:さど観光ナビ

また、親鸞が流された越後は彼の影響を強く受けました。
彼は自身の寺院を持つことはしませんでしたが、彼が住んだ越後では教えが広まり、今でも新潟県内では浄土真宗が宗派の4割を占めているのだそうです。

流罪から奇跡の再起を遂げた人物といえば…!

流罪になればもう戻れないとまで考えられていた時代、奇跡的な復活を遂げた人物もいます。

「伊豆に流された頼朝は、そこで北条政子と出会う」

源頼朝は、父・義朝が平治の乱で平清盛らに敗死した後に捕らえられ、伊豆へ流されました。そこで約20年間生活し、この間に北条時政ら有力豪族の知遇を得ます。

北条時政を演じる遠藤憲一さん
大河ドラマ「平清盛」ⒸNHK

以仁王の平氏追討令に応じて挙兵し、父の代からゆかりのある坂東の豪族たちと結んで関東を平定し、一大勢力を築きました。そして平氏の追討軍に勝利を重ねながら京都へ攻め上り、やがて平氏を滅亡に追い込んだのです。罪人から征夷大将軍にまで上り詰めた、奇跡の大逆転劇でした。

反平家を掲げて挙兵する源頼朝
大河ドラマ「平清盛」©NHK

 

また、頼朝の鎌倉幕府後期に登場したのが後醍醐天皇です。彼は幕府打倒を計画しますが露見してしまい、やむなく挙兵するも捕らえられて隠岐に流刑となってしまいました。
しかし天皇は諦めず、反幕府勢力の力を借りて島を脱出し、再挙兵します。この執念、ちょっと普通の天皇ではありません。そんな天皇に呼応したのが足利高氏(のちの尊氏)でした。彼の助力も得た天皇は見事に帰京し、建武の新政を開始することとなったのです。

流刑から再起を遂げたと言えば、ナポレオンもそうでした。到底不可能と思われたところからの脱出で世間を驚かせたわけですから、源頼朝や後醍醐天皇の再起もそれに比するものだったでしょう。交通網が発達していない時代、流刑となれば社会的に抹殺されたも同然。歴史を変える人物はやはり違いますね。

(xiao)

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