幕末期に活躍した浮世絵師のひとり・歌川国貞。作画期間は50年を超え、作品数は1万点を超えるとも言われています。この数はもちろん浮世絵師の中では最多。質、量ともに浮世絵界随一と言えるのです。
国貞は元治元(1865)年の新暦1月12日に亡くなりました。
忌日を機に、歌川国貞とはどんな人物だったのか? どんな作品を残したのか? をご紹介します。
材木問屋に生まれ15歳で浮世絵の門人に
歌川国貞の本名は、角田庄五郎。江戸の材木問屋「亀田屋」の子として生まれました。
生年は天明6(1786)年。江戸の3大改革のひとつ、松平定信による寛政の改革が始まる前年でした。15歳くらいの時に、役者絵や美人絵で名を馳せた浮世絵師・初代歌川豊国の門生となります。
その後、国貞も美人絵や役者絵で高い評価を受けるようになったのです。
面長猪首姿の美人画
国貞は22歳頃から美人画を描き始め、数多くの作品を輩出しました。そのうちのひとつが、「江戸名所百人美女」。江戸の名所と美女を合わせて描いた100連作で、安政3(1857)年、国貞が72歳の時の作品です。
国貞の描く美女の特徴は、顔が細長く、首は太く短い面長猪首姿です。
また、国貞の美人画の魅力は、人物が生き生きと描かれているところ。ちょっとした仕草からは、人物の背負った人間ドラマがにじみ出るかのようです。現代人にとっては、当時の女性の生活の一端を伝えてくれる作品でもあります。
歌舞伎界にも多大な影響を与えた役者絵
国貞は、役者絵でも有名。「師を超えた」と言われるほど、高い人気を博しています。
こちらで紹介するのは「稲瀬川勢揃いの場」。「白浪五人男」としても知られる歌舞伎の演目「青砥稿花紅彩画」の一幕を題材に描かれた役者絵です。
写真のなかった当時、役者絵は今で言うプロマイドとしても需要があり、役者のファンがこぞって買い集めました。
「白浪五人男」と国貞の深い関係を表すエピソードがあります。
「白浪五人男」の看板役者だった五代目尾上菊五郎は、この題目ををテーマに描かれた国貞の錦絵を見ていたく気に入り、芝居に取り入れたと言われています。別の説では、「白浪五人男」という演目自体が、国貞の錦絵をヒントに作られたという話もあります。
調べるときは「三代目豊国」でもチェック
弘化元(1844)年、国貞は59歳の時に二代目豊国を称します。ですがこれ以前に同門の歌川豊重が豊国を襲名していました。
現在では豊重と区別するために、国貞は「三代目豊国」と呼ばれています。
国貞の作品を探す時は、ぜひ「三代目豊国」でも調べてみてくださいね。
(Sati)
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