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【 父・家康に嫌われ… 】 不遇な人生でも実は高評価だった結城秀康

徳川家康の息子として生まれながら、終生徳川姓を名乗ることがなかった結城秀康。残念ながら不遇だったエピソードが多い秀康ですが、実はその評価は高かったといわれています。なぜ彼は徳川姓を名乗らなかったのでしょうか。彼の人生とその人柄を伝えるエピソードをご紹介します。

徳川家康の二男として生まれるも、姓は「羽柴」と「結城」

「容貌が良くなかったとされるが、肖像画は至って普通?」

結城秀康は、天正2(1574)年、徳川家康の二男として生まれました。母は於万の方。家康の正室・築山殿の侍女です。
なんと、秀康は3歳まで父に対面できずにいました。これには幾つかの理由が伝えられていますが、容貌が良くなかったこと、家康が築山殿の目を気にしたこと、そして秀康が実は双子であったかもしれないということなどが挙げられるんです。当時、双子は「畜生腹」として忌み嫌われる存在でした。それにしても容貌が良くないって、ひどい・・・。

そんな秀康を父に会わせるよう取り計らってくれたのは、長兄の信康でした。信康は後に切腹させられてしまいますが、だからといって秀康に後継ぎの座が回ってくることはありませんでした。
豊臣(羽柴)秀吉との小牧・長久手の戦いの和解条件のひとつには、秀康が秀吉の養子になることが組み込まれていました。そこで、彼は羽柴秀康として新たな出発をすることになったのです。

秀吉のもとで成長した秀康は、秀吉の天下統一に向けた戦いで功績を挙げました。しかし秀吉に実子が生まれると、またも他家へ養子に出されてしまいます。天正18(1590)年、秀康は関東の名家である結城晴朝の養子となり、結城姓を名乗ることになりました。

その後、家康による関ヶ原の戦いの前哨戦・会津征伐に参加した際は、関ヶ原へ向かう家康らに代わって宇都宮城にとどまり、上杉景勝を牽制する大役を果たします。この功績よって戦後は越前に加増・移封され、将軍の命令の範囲外である「御制外」特権を与えられ、後の越前松平家の祖となりました。
しかし慶長12(1607)年、病のため34歳で亡くなります。死因は梅毒とされ、鼻が欠けてしまったとも伝わっています。

天下三名槍・御手杵を操る徳川家随一の剛の者!

「結城蔵美館所蔵の御手杵(レプリカ)。天下三名槍のひとつ」
(画像:結城市提供)

秀康は武将として非常に優れた剛の者で、体格も良く威風堂々としていたそうです。養父・結城晴朝から受け継いだ4m弱もある名槍・御手杵を操る姿は、さぞかしカッコ良かったでしょうね。
また、ある時家康が側近に自分の後継者は誰が良いか尋ねたことがあったそうですが、参謀の本多正信以下ほとんどが秀康を支持したと伝わっています。

石田三成との友情がカッコイイ!

お互い周囲への評判が良くない石田三成と気が合った?

秀吉の死後、加藤清正ら武断派による石田三成襲撃事件が起き、三成は失脚して隠居を余儀なくされました。この時、秀康は「太閤殿下の恩に報いるなら、佐和山へ入られるがよろしい。そこまでは私が責任を持ってお守りしますので」と三成を説得し、護衛を務めました。
三成はそのお礼に名刀・正宗を秀康に贈りました。後、三成の名がタブー化された世の中になっても、秀康はこれに「石田正宗」という名をつけて愛用したそうです。死後は子孫の津山松平家に代々伝えられ、現在は東京国立博物館に所蔵されています。

戦に勝っても敗軍の将への敬意を忘れず

「先輩中納言」上杉景勝への敬意を忘れない

会津征伐で上杉景勝に睨みをきかせた秀康ですが、いざ景勝が降参を申し入れると、弱った上杉を叩くのは武士の道に反するということで、家康への謝罪を取り成しました。
その後、江戸城で景勝に会った際には、先に景勝が中納言の位にあったのだから、先輩より上座に座るわけにはいかないと席次を譲ったと言われています。義や年長者を敬う心も持ち合わせていたのですね。

もし秀康が眉目秀麗な男子だったら、家康の待遇は変わっていたのでしょうか。世が世なら、優れた2代将軍になっていたかもしれませんよね。家康の腹の中は読めませんが、秀康がイケメンだったら世の中は違う方向に進んだかも・・・なんて思ってしまいます。

(xiao)

画像協力
結城蔵美館(結城市HP)

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