「遊びをせんとや生まれけむ」という有名な一節。大河ドラマ『平清盛』のテーマにも使われており、劇中では後白河天皇が今様をこよなく愛するさまが描かれていますね。ところで、今様っていったいどんなものかご存知ですか?
「今様」(いまよう)とは?
今様とは、「今風、現代的」という意味であり、平安中期を起源とした流行歌のことでした。平安中期と言えばまさに紫式部や清少納言のころで、彼女たちの随筆には「今様歌」という言葉で登場します。
当時、宮中音楽は「神楽」や漢詩に曲をつけた「朗詠」、管弦に合わせて歌う「催馬楽(さいばら)」などが主流でしたが、一般市民は今様歌を好んでいたわけです。
そのため、現代で言えば、今様は巷で流行るヒット曲のようなものでしょうか。
今様の歌詞は七五調で、4回繰り返して1コーラスとなります。この形式は近代にまで受け継がれていて、『荒城の月』や『蛍の光』などが同じスタイルとなっているので、このリズムをイメージしてみて下さい。
また、伴奏は主に鼓だったようです。後白河天皇のころになると、白拍子(歌舞を演じる芸人)や遊女など女性がそれに合わせて舞ったりもしました。源義経の妻だった静御前は、白拍子出身としてよく知られます。
こういう、庶民が楽しむような歌に後白河天皇は入れ込んでしまったというわけです。
後白河法皇の今様へのハマり度ハンパなし!
後白河天皇は「今様狂い」と呼ばれるほど今様にハマっていました。好きが高じて、『梁塵秘抄』という今様のアンソロジーを自ら編纂してしまったほどです。自分が死んでも、今様が後世に伝わるようにと考えてのことだったんですよ。
また、今様が好きすぎて芸人に弟子入りしてしまったというのですから、ハンパない愛を感じます。何でも、本気で今様を受け継ぐ後継者になろうと思っていたらしく、時には喉をつぶしても歌い続けたと言われています。
加えて、宮廷で「今様合(いまようあわせ)」という歌会も催しました。30人の公卿が二手に分かれ、一晩で15番勝負するのをなんと15日間も続けたそうです。朝から晩まで今様漬け、もはや今様なしでは生きられなかったのでしょうね。これについていく臣下たちも大変でしたねえ・・・。
後白河天皇の御所でありお墓のある法住寺(京都市東山区)では、毎年10月第2日曜日に「今様歌合せ」が行われています。
『梁塵秘抄』にはどんな今様が載っていた?
後白河天皇が編纂した今様アンソロジー『梁塵秘抄』は、治承年間(1180年前後)に完成したとされています。本編10巻と口伝集10巻から成っていましたが、現在はごく一部しか残っていません。
これに載っていた今様は、和歌を歌詞にしたものや、童心を歌ったもの、恋愛ものなどもありました。仏典の法文である法文歌もあり、神仏を賛美するものは特に多かったそうです。
大河ドラマ「平清盛」の劇中では後白河天皇(当時雅仁親王)が、「舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。」と歌う姿も印象的でした。
今様は後世にまで影響を残しています。雅楽で有名な『越天楽(えてんらく)』に歌詞をつけた『越天楽今様』というものがあり、福岡の民謡『黒田節』の元になったとされます。また、神楽のひとつ『豊栄の舞』も『越天楽今様』の影響を受けています。近代になると、『越天楽今様』は管弦楽に編曲されるほどになりました。
『梁塵秘抄』の「梁塵」とは、「歌の名人が歌うと梁の上の塵ですら打ち震えるほどだった」という中国の故事に由来しています。後白河天皇の今様に対する愛情と入れ込みようが感じ取れるタイトルですね。「今様狂い」なんて不名誉な呼び名を付けられながらも、権勢をふるい続けた後白河天皇。「遊びをせんとや生まれけむ」という今様がぴったりの人生だったのかもしれませんね。
(xiao)
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