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【 土下座じゃなくて〇〇!】畸人なる者・高山彦九郎の熱すぎる生涯とは

高山彦九郎の名前は、戦中世代にはとても馴染み深いものですが、現代では「寛政の3奇人」のうちの1人、という認識しかないかも知れません。高山彦九郎は「奇人」といわれるだけあって情熱的で気魄の人物でした。そして彦九郎は幕末の勤王の志士たちに大きな影響を与えた尊皇思想のパイオニアでもあります。迫力の壮士の生涯をご案内いたしましょう。

「土下座像の前に6時ねっ」…なぜ土下座してるの?

なぜここで土下座?その理由は…

京都にお住みの方ならよくご存知の土下座の像。デートスポットとして知られる鴨川にかかる三条大橋の東詰、京阪電鉄・三条駅の前にあります。待ち合わせスポットとしてもよく使われていますが、どのような謂われのある像なのかはあまり知られていないようです。

この土下座の像こそ、高山彦九郎の像なのです。では、なぜ彦九郎は「土下座」しているのでしょう?

実はこの像の正式名称は「高山彦九郎先生皇居望拝趾」といいます。つまり、京都御所に向かって「望拝」している姿なのです。現代では謝罪の意味が強くなっていますが、もともと「土下座」は土の上に座り伏して敬仰の礼をあらわすものでした。

彦九郎は生涯に5回京都を訪れ、そのたびに三条大橋の上から御所を拝み「草莽の臣、高山彦九郎」と叫んだといいます。「草莽の臣」とは民間人ながら国に身を捧げる臣下という意味です。

彦九郎の像が造られたのは昭和3(1928)年のこと。台座の揮毫はあの東郷平八郎だったのですが、昭和19年に金属供出のため取り壊され、その後昭和36(1961)年に再建されたのが現在の像です。ちなみにこの像の彦九郎は18歳とのこと。何というか・・・大人っぽいですね。

奇人と言われるワケは? 稀代の〈奇人〉ここにあり

高山彦九郎(『高名像伝 : 近世遺勲. 天』)

高山彦九郎は「寛政の3奇人」のひとりとして知られています(あとの2人は林子平と蒲生君平)。「奇人」といわれたのはどうしてなのでしょうか?

現代では奇人=ヘンな人、という印象が強いですが、この場合は「優れている」「人とは異なる個性を持っている人」のような意味になります。「超個性的な人」という意味で彦九郎は確かに「奇人」でした。彦九郎の「超個性的」エピソードをご紹介いたしましょう。

高山彦九郎が生まれたのは延享4(1747)年。生家は上野国新田郡細谷村(現・群馬県太田市細谷)の豪農でした。彦九郎は教育熱心な祖母から自分の祖先が新田義貞の「新田十六騎」のうちのひとりである高山遠江守だと聞かされ『太平記』を教科書に尊皇思想を学びました。

18歳になった彦九郎は家を出て京都へと向かいます。そこであの「土下座の像」の姿の通り京都御所に向かって「草莽の臣、高山彦九郎」と幾度も叫びました。しかも、号泣しながら・・・。道行く人々のクスクス笑いも意に介さなかったといいます。

この後、彦九郎は全国を行脚して多くの思想家・文筆家たちと交流していき、ある意味で狂信的ともとれる尊皇思想はいよいよ強固なものとなっていきました。

彦九郎が京都・衣笠山の等持院を訪れた時のこと。朝敵・足利家の菩提寺である等持院で彦九郎は足利尊氏の墓を箒尻(笞打刑に使う刑具)で300回も鞭打ったといいます。
新田家臣下の血を継ぐ彦九郎にとって、足利尊氏が後醍醐天皇へ行った数々の所行はとうてい許せるものではなかったのです。

寛政3(1791)年、緑毛亀という甲羅に長い藻のついた亀を手に入れた45歳の彦九郎は「これは天皇による文治政治を示す吉兆のしるしだ」と考え光格天皇に献上しました。これを光格天皇は喜び、拝謁がかないます。彦九郎は滂沱の涙を流したといいます。

その感激を詠った歌は、愛国百人一首にとられています

謎に包まれた死と尊号事件の関わりは?

その後、彦九郎は九州へと向かいました。この頃「尊号事件」と呼ばれる光格天皇の父・典仁親王への尊号贈与をめぐる事件が起こっていました。皇位についていない典仁親王に対して上皇の尊号を贈ることを幕府が反対しており、彦九郎はこれに憤慨して熱心に活動をしていました。
活動の支援を求めて訪れた九州で、彦九郎は幕府に捕縛され処罰を受けます。幕府の監視下に置かれた彦九郎は、久留米の儒学者・儒医である森嘉膳の屋敷に身を寄せました。しかしそこで自刃し、寛政5(1793)年6月28日に亡くなりました。享年47歳。

検視をした森嘉膳は「狂気なり」と述べたといいますが・・・。尊号事件で捕縛され幕府への敗北感があったのでしょうか。「草莽の臣」としての自分に対する絶望なのでしょうか。遺書もなく、どのような思いで彦九郎が自刃したのかは今も謎とされています。彦九郎の墓は久留米市寺町の遍照院にあります。

6月27日、遍照院にて行われる高山彦九郎墓前祭の様子

吉田松陰と勤王の志士たちの心の礎として

尊皇思想を体現した彦九郎は、その後日本中に巻き起こる勤王のムーブメントの先駆者でもありました。

倒幕運動の思想的中心人物であった吉田松陰は、彦九郎の評伝を深く読み感じ入ったといいます。安政の大獄で投獄された松陰は友人に宛てた手紙に「高山彦九郎の後塵をつぐ覚悟」と書き綴りました。彦九郎の諡(おくりな)は「松陰以白居士」。吉田松陰の「松陰」という号は彦九郎の諡からとったものともいわれています。

「吉田松陰」

また、幕末の勤王の志士たちも彦九郎を崇敬していました。万延元(1860)年、高杉晋作は上野国新田郡細谷村にある彦九郎の遺髪塚を参拝しており、文久2(1862)年には久坂玄瑞中岡慎太郎も参拝しています。
気概の人・彦九郎は幕末を生きる勤王の志士たちの心の礎となっていたのですね。

王政復古が成ったのは、彦九郎が没してから74年後のことです。彦九郎は、やがて倒幕の風が吹き荒れる世が来ることを感じていたでしょうか。生涯を尊皇思想の体現に捧げた彦九郎は、18歳で故郷を出てから、いったんは妻帯したものの家族と離別して全国を遊歴して廻りました。あまりに情熱的な彦九郎は「奇人」らしい「奇人」だったといえるのではないでしょうか。

参照:ほとめきの街 久留米

(こまき)

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