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【 もうひとつの大乱 】関東戦国時代の始まり!?「享徳の乱」ダイジェスト

文明14年(1483)11月27日、関東一円を巻き込んだ大乱・享徳の乱が収束を迎えました。この乱は応仁の乱明応の政変と同様、関東における戦国時代の幕開けを告げるものでもありました。鎌倉公方(古河公方・堀越公方)や関東管領など、複雑に絡み合った武将たちの抗争を、誰と誰が戦っていたのか明確にしながら、ご紹介します。

享徳の乱とは?

享徳3年(1455)12月27日から文明14年(1483)11月27日までの約28年間、関東で起きた内乱が、享徳の乱です。応仁の乱の時期とも重なり、ちょうど室町幕府では8代将軍足利義政の頃でした。

鎌倉公方と関東管領

関東に設置された室町幕府のいわば出先機関・鎌倉府は、観応の擾乱後に設置されました。鎌倉府のトップが鎌倉公方と呼ばれ、それを補佐するのが関東管領でした。鎌倉公方には足利尊氏の二男・基氏の系列が任命され、関東管領は後に上杉氏(各地にたくさんいます)、特に山内上杉家が独占するようになっていきます。

将軍足利義教&元関東管領・上杉憲実VS.鎌倉公方・足利持氏

しかし、鎌倉公方は幕府と対立を深め、6代将軍足利義教は前関東管領・上杉憲実と組み、鎌倉公方・足利持氏を滅ぼしてしまいます。これが永享の乱で、関東管領の力が強まり、上杉氏が関東での専制君主状態となります。

「結城合戦絵詞」より、
自害する足利持氏(画像上、赤い服の人物)。

ところが、嘉吉の乱にて将軍義教が家臣の赤松満祐に暗殺されると、幕府の姿勢には変化が出ました。

関東武士団や越後守護の上杉房朝(関東の上杉とは別家)らは、関東管領上杉氏の専制に異を唱え、幕府に鎌倉府の再興を願い出たのです。そして幕府は、自らつぶしたはずの鎌倉府を再興、持氏の息子・足利成氏を新・鎌倉公方に任命したのでした。

鎌倉公方・足利成氏vs.関東管領・上杉憲忠
元関東管領・上杉憲実は足利学校の整備も行っていた。
(写真提供:栃木県)

成氏とすれば、父を滅ぼした上杉憲実の息子・憲忠が関東管領をしているのは、どうにも我慢なりません。そのため、父を支持した結城氏・小田氏・里見氏などを重用し、上杉氏の力を遠ざけようとしました。

となれば、上杉側は反発します。山内上杉家宰・長尾景仲と扇谷上杉家宰・太田資清らは結城氏などの勢力拡大を懸念し、彼らを重用する成氏を攻めました。やがて両者の間に和議は成立しましたが、鎌倉公方・足利成氏と関東管領・上杉家の関係は緊張状態が続くことになったわけです。

足利成氏による上杉憲忠の暗殺により、乱勃発!

しかし、やはり我慢ならなかった足利成氏は、享徳3年(1455)12月27日、上杉家宰の長尾景仲の留守を狙い上杉憲忠を暗殺します。さらにその一族・長尾実景・憲景父子も殺害してしまいました。

鎌倉公方・足利成氏vs.関東管領・上杉房顕&房定

憲実が暗殺されたため、弟・房顕が関東管領に就任し、越後守護である従兄弟・房定と共に上野平井城(群馬県藤岡市)に入り、成氏方との戦争状態に突入します。これが享徳の乱の始まりでした。

留守中だった長尾景仲はこれを幕府に報告、成氏討伐を願い出て、幕府もこれに応じ、駿河守護の今川範忠を派遣しました。
こうして、幕府&関東管領VS.鎌倉公方という構図が再現されたのです。

そして、成氏が関東各地を転戦しているうちに、この今川範忠が鎌倉を占拠してしまったため、成氏は鎌倉に帰れなくなりました。そのため古河に入り、古河公方と称するようになります。

古河総合公園内にある「古河公方館址」碑。

享徳の乱が勃発した影響は関東一円に波及し、家臣たちによる下剋上が相次ぎ、勢力図にも変化が出ました。
結果、利根川を境として、東を古河公方(成氏)、西を関東管領(上杉氏)が支配するという、東西分断となってしまったのです。

「鎌倉」なのにどちらも鎌倉にいない公方

関東でそんなゴタゴタが発生していると知り、8代将軍・足利義政は成氏に対抗すべく、異母兄の政知を「正式な」鎌倉公方として関東に派遣しました。しかし政知は関東武士団らの支持を得られず、鎌倉に入ることができません。仕方なく、鎌倉の手前の伊豆・堀越に入り、堀越公方となったのです。
ところで、成氏も、古河公方と名乗ってはいますが、元をただせば鎌倉公方ではありますよね。というわけで、2人の鎌倉公方がそれぞれ古河・堀越公方として対立する構図が生まれたのです。

関東管領勢に長尾景人が加わり、成氏ピンチに

一方、成氏は相変わらず関東管領上杉氏、上杉房顕との戦いを続けていました。

しかしこの間に、房顕の推薦によって長尾景人(享徳の乱勃発時、成氏方に殺された長尾実景の二男)が下野に入り、上杉方の拠点を敵方・古河公方の勢力内に築いたのです。景人は足利長尾氏の祖となり、上杉方の反撃が始まりました。
そして、成氏方の主力が伊豆・堀越公方方面と戦っているうちに、上杉方は下野国内を制圧してしまったのです。

しかし成氏もすぐに本拠地・古河を奪還、さらにこの最中に房顕は急死し、急遽、房定の次男・顕定を養子に迎えて、新たな関東管領が誕生しました。

実はこの頃、元号が2つとなっていました。
正式な元号は「文明」となっていましたが、成氏の古河公方関係者はみな「享徳」を使い続けています。幕府による元号の変更に抵抗したためとも、幕府が改元を関東管領上杉氏にしか伝えなかったためとも言われていますが、理由ははっきりしていません。

関東管領の内紛を納めた太田道灌

さて、代替わりした関東管領・上杉顕定の山内上杉家ですが、今度は内紛が起きました。

古河公方・足利成氏&長尾景春vs.関東管領・上杉顕定

山内上杉家宰の長尾景信が亡くなり、その跡を二男の忠信が継いだのですが、長男の景春がこれを恨み、文明8年(1476)に主君の上杉顕定から離反したのです。しかも敵方・足利成氏に寝返ったのですからさあ大変。景春は成氏側で大活躍を見せ、顕定を大いに破ったのです(長尾景春の乱)。

ただ、この内紛を収めたのが、扇谷上杉家宰・太田道灌でした。
顕定は内紛が収まったことには安堵しながらも、扇谷上杉家の力が強まることを懸念し、やがて成氏との講和を考え始めます。

長尾景春の乱を鎮めた扇谷上杉家宰・
太田道灌。有能すぎて主君・
上杉定正に誅殺される。
(大慈寺蔵)

そして、文明10年(1478)、成氏と顕定は正式に和睦しました。この時から、成氏も「享徳」の元号の使用をやめています。
それに加えて成氏は幕府とも和睦をすすめ、文明14年(1483)11月27日、和睦が成立し(都鄙合体)、30年近くに及んだ享徳の乱は何とか収束したのでした。

享徳の乱の後は?

ところで、成氏はいいとして、政知はどうしたのかと言いますと・・・。
しばらくは成氏が古河公方として関東を治め、政知は堀越公方として伊豆を治めることになり、2人の鎌倉公方が並行するという何とも奇妙な状態が続いたのです。

上杉氏は長尾景春の乱の後に山内上杉氏と扇谷上杉氏が決裂し、長享の乱に突入します。その終結もつかの間、やがて後北条氏に支配権を奪われることとなりました。

一方、古河公方もまた関東で勢力を広げた後北条氏の傀儡状態になり、消滅していきます。また、ここから分裂した小弓公方も滅亡しますが、両者の末裔同士が婚姻を結び、下野喜連川氏として続いていくことになります。

本当にややこしい享徳の乱でしたが、この流れを頭に入れておくと、関東の戦国時代を理解するのに役立つこと間違いなしです。

(xiao)

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