幕末に活躍した藩といえば薩長土肥、佐幕派であれば会津藩や庄内藩などが浮かびますが、もちろん、どの藩にも騒動がありました。今回は譜代大名の筆頭だった彦根藩、共に大藩だった仙台藩、加賀藩らは、動乱の時代をどう乗り越えたのか。各雄藩の幕末の動向をご紹介します。
【彦根藩】譜代筆頭にもかかわらず新政府を支持
まだ記憶に新しい大河ドラマ「おんな城主 直虎」の井伊家が、幕末まで藩主を務めた彦根藩。藩祖は井伊直政で、藩庁が置かれたのは、現在の滋賀県彦根市にある彦根城(入封当初は佐和山城)です。石高は2代藩主・直孝のとき、譜代大名中最高の35万石となり、歴代藩主は幕閣の中枢を担うなど、文字通り譜代筆頭の格式を誇りました。
幕末に名をあらわしたのが、15代藩主・直弼。安政5年(1858)、幕府の最高職である大老に就任すると、将軍継嗣問題や日米修好通商条約調印問題を解決するため強権をふるいます。しかし、安政7年(1860)3月3日、江戸城桜田門外において、反対勢力により暗殺されます(桜田門外の変)。
この事件をきっかけに、幕府は彦根藩に10万石の減封を通告。さらに将軍継嗣問題で対立した旧一橋派が幕政の主導権を握ると、冷遇される日々が続きました。
そのため慶応3年(1867)の大政奉還以降は、譜代筆頭にもかかわらず新政府を支持。翌年の鳥羽・伏見の戦いでは、当初より薩摩・長州軍を支援し、幕府軍と戦います。続く戊辰戦争でも新政府軍に加わり、関東から奥羽へと転戦。新選組の近藤勇の捕縛にもあたり、戦後は賞典禄2万石を朝廷から拝領しています。
【仙台藩】大号令に反発、奥羽越列藩同盟の盟主に
仙台藩の藩祖はご存知、伊達政宗。現在の宮城県仙台市に築かれた仙台城に藩庁を置き、表高で62万石を誇りましたが、実収入は100万石ともいわれた東北随一の大藩です。
3代藩主・綱宗のとき、三大お家騒動に数えられる「伊達騒動」が起こりますが、江戸時代を通じて伊達家の統治が続きました。
幕末には、薩摩・長州・土佐・加賀などと並ぶ雄藩として、その動向が注目されましたが、政局の中心であった京都から地理的に離れていたこともあり、時勢に乗り遅れます。大政奉還後は、王政復古の大号令に反発。戊辰戦争が勃発すると、新政府に対抗するために成立した奥羽越列藩同盟の盟主となりました。
しかし、同盟に参加した諸藩は、各地で新政府軍に敗退し、戦線を維持できなくなったことから、仙台藩も降伏。敗戦後、新政府より責任を問われた仙台藩は、62万石から28万石に減封され、多くの家臣が苦境に陥りました。
このとき、仙台藩一門の伊達邦直・邦成兄弟をはじめとした領主たちは、家臣団を救済するため、私費を投じて北海道開拓を決意。様々な苦難を乗り越え、現在の当別町や伊達市の基礎を築くこととなります。
【加賀藩】どっちつかずのまま、現状維持
加賀藩は、江戸時代の大名中最大の102万5千石を領した大藩で、藩祖は前田利家。現在の石川県金沢市にある金沢城に藩庁を置き、加賀・能登・越中の大半を領有しました。
しかし、その絶大な国力に反して、幕末における加賀藩の存在は希薄です。禁門の変のとき、加賀藩の嗣子である前田慶寧の手兵も警備にあたっていましたが、戦闘には加わらず兵を引いています。政情が刻々と変化するなか、藩内では藩論を二分する抗争も起こりますが、最終的には日和見の姿勢をとり続けました。
そして、慶応4年(1868)正月、鳥羽・伏見の戦いが勃発。当初は幕府に味方すべく京都へと向かいましたが、その途中、幕府側の敗戦を知ると、朝敵になることを恐れ、すぐさま兵を返します。その後は新政府にひたすら恭順の意を表し、北陸道鎮撫軍が起こされたときには先鋒に志願。その甲斐あって、減封などの処罰を受けることなく、明治時代を迎えることとなりました。
長い間、徳川に尽くしてきた彦根藩が新政府につくとは変わり身の早い気もしますが、家と領民を守るためなら仕方なかったのでしょう。奥羽越列藩同盟によって戦火が広がったという見方もありますが、仙台藩は家臣団を守ろうと行動を起こしました。一方、家と領民は守れた加賀藩も、もう少し早くに新政府についていれば、もっと優遇されていたかもしれません。
いずれにせよ、多くの人々が激動に晒された時代だったといえるでしょう。
(スノハラケンジ)
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