吉原遊郭と聞くと、艶っぽい雰囲気の華やかな風俗街を想像されるのではないでしょうか。しかし、そこで生活していた女性たちには日々の現実がありました。
今回は、光り輝くような花魁や太夫についてだけでなく、彼女たちの身分や地位の違いについても、詳しくご紹介していきます。
花魁と太夫の違いとは
吉原や花街といった言葉から連想される「花魁(おいらん)」と「太夫(たゆう)」。みなさんはその違いをご存じでしょうか。
「花魁」は高級遊女に対する呼称で、「太夫」は主に芸事をサービスする芸妓の最高位の称号という違いがあります。
花魁の名前の由来
「花魁」は「遊女」のなかでも、その美しさや芸事の技能により高い評価を得た女性に対する一般的な呼び方です。
一説には尻尾を使って人をだます狐や狸と違い、手練手管(てれんてくだ)で客をだますことから「尾がいらない」つまり、「おいらん」となったという説もあります。
一方で妹分の遊女である禿(かむろ)や新造(しんぞう)からの呼びかけで「おいらん」という廓言葉(くるわことば)がもとになったともいわれます。この場合は「おいらの所の姉さん」といった意味合いとなります。いずれにせよはっきりした定説はないようです。
太夫の名前の由来
「太夫」は、芸の技でサービスをする職業(舞妓、芸子、芸妓など)の中でも、芸と教養も兼ね備えた女性に与えられる、最高位の称号です。
「太夫」の名前の由来は、戦国時代の出雲阿国で知られている「おんな歌舞伎」で、芸達者の役者が江戸時代初期に「太夫」と呼ばれたのが始まりとされています。
江戸と京都でも違いがあった
花魁は「身体を売る遊女のうち高級遊女の呼び方」、太夫は「高い教養などを前提として、芸事をサービスする芸妓の最高位への称号」という違いがありました。しかし、次第に遊女も太夫を名乗るようになります。
江戸吉原・京都島原・長崎丸山などに代表される日本各地の遊郭でも、遊女の階級制が成立していく中で、美貌だけでなく教養や芸事にも通じていた遊女に対して、太夫の称号が与えられたようです。後に江戸吉原で太夫の称号は、使われなくなりましたが、京都島原などでは太夫の称号は使われ続けたとされています。
格差社会だった遊女の地位
遊女という存在を商品として捉えると 、美貌、芸事、教養などが、彼女たちと「会う時間」を買う時の値段に反映されます。美貌と機知を兼ね備え、男性の人気を集められる女性であれば、遊女の中でも高い格付けをえられました。
遊女の地位は種類がたくさんあった
遊女の格付けの最高位は宝暦頃までが太夫で、その下が格子(こうし)、更にその下を端(はした)という三区分としていました。
その後、格子のすぐ下に局(つぼね)と呼ばれる区分が生まれ、散茶(さんちゃ)、切見世(きりみせ)などがあらわれます。このうち散茶は寛文8年(1668)に江戸各地に散在していた湯屋を吉原に強制移転した際に、中級ランクの遊女を区分したものです。
はじめのうちは中級以下の格付けだった散茶ですが、太夫や格子といった呼び方が流行らなくなり、格付けが上昇することになりました。その散茶が、呼び出し(よびだし)、昼三(ちゅうさん)、附廻(つけまわし)という区分に分かれていきます。江戸中期以降は昼三などが中級から上級の遊女を指すようになったとされています。
上位格付けの遊女達は以下のような大まかな区分に分けられました。
- 呼出し昼三
- 平の昼三
- 座敷持ち
- 部屋持ち
そして上級遊女たちを一般的に花魁と呼ぶようになったとされています。
極貧生活から這い上がるために
吉原をはじめとした遊郭で働く女性たちは、貧しさのために借金を重ねていた実家から、幼い頃に妓楼に買われてきます。借金返済のための年季という期間が定められており、脱走しないように吉原大門という関所よりも内側に閉じ込められて暮らしていました。
雇用主である見世の旦那は、見込みのある少女を「秘蔵っ子」として英才教育を施し、将来の太夫候補としてデビューさせることを望んでいたでしょう。遊女としても、働きながら芸の技や教養を磨いて最高位まで登り詰めて太夫となる、現代でいうシンデレラガールを目指していた者がほとんどでした。