凋落がいちじるしいといわれる百貨店業界。三越伊勢丹ホールディングスの2018年3月期の純損益が10億円の赤字に転落したことからも、そのことがうかがえます。しかし、かつて百貨店といえば買い物の殿堂であり、お出かけの場として人々の娯楽も担っていたのです。そこで、第二次世界大戦前の東京を中心に、百貨店がどのように発達してきたのかを見てみましょう。
陳列方式を採用しいち早く「デパートメントストア」となった三越
江戸時代までの一般的な店舗での販売方式は「座売」と呼ばれ、店の奥から商品を少しずつ運んで客に披露する方法でした。しかし、この方法では店の側の「売りたいもの」が優先され、客の選択肢は狭められてしまいますし、売り上げも次第に頭打ちに。そこで、老舗呉服店を中心に、近代的な商法が模索され、海外の百貨店を視察するなどの研究が進められました。その結果採用されたのが、商品を陳列し、客に見せて売る「陳列方式」です。これをいち早く取り入れたのが三井呉服店で、1900年10月には全館が陳列場となりました。
三井呉服店は1905年1月3日の新聞各紙に次の文章を掲載しました。
一、東京本店は追て店舗の面目を一新し、商品飾付け萬端最新の改良を加へ、御来客様方に一層の美感を生じ、愉快に御買物遊ばされ候様、充分設備可致事
一、当店販売の商品は、今後一層其種類を増加し、凡そ衣服装飾に関する品目は一棟の下にて御用弁相成候様設備致し、結局米国に行はるるデパートメント・ストアの一部を実現可致候事(三井呉服店広告「デパートメントストア宣言」、『東京朝日新聞』1905年1月3日8面掲載のものから引用)
これがのちに「デパートメントストア宣言」と呼ばれるもので、日本の百貨店はここに始まったといわれます。そして、百貨店は近代的な商業施設へと変貌を遂げてゆくのです。
買い物よりレジャー!? 百貨店は娯楽の殿堂だった
繁華街であった日本橋(三越、白木屋=東急日本橋店となった後、1999年に閉店)や銀座(三越日本橋店、銀座松屋、松坂屋銀座店=現在のGINZA SIX)などに相次いで百貨店が登場したことで、百貨店は都市を象徴するもののひとつとなってゆきました。洗練された近代建築、流行のファッションなどで装飾されたショーウィンドウは、近代化する時代の中で人心を惹きつけるのには十分すぎるほどでした。
もっとも、百貨店の取扱商品の中心は、高級品であったり、奢侈(しゃし)品で合ったりすることが多く、なかなか購入することは難しいというジレンマも。一方で、半期に一度くらいの割合で行われた売出しの際には、大勢の人々が詰め掛けて売場を埋めつくしたといいます。
商品の購入がまだ現実的でなかったにもかかわらず、百貨店に多くの人が訪れたのはなぜでしょうか。それは、百貨店が開催した各種のイベントや、付属の施設などが娯楽的な要素をふんだんに持っていたためだといえます。なかでも音楽隊の演奏、博覧会・展覧会などが人気で大盛況だったため、百貨店は競い合うように次々とイベントを企画・開催しました。大正末期の行楽地を番付には、諸所の行楽地に混じって、「三越」の名前も見られます。
当時の建築の専門家であった高橋貞太郎は次のような言葉を残しています。
我国百貨店の特異性とも称すべき百貨店を都会に於ける名物と考へ更に行楽視する習慣がある(中略)欧米の百貨店の客がショッピングを目的とするのに反し、我国のそれは一日の行楽として百貨店行を選ぶ関係から子供連れの婦人客の多きことを忘れてはならぬ
(高橋貞太郎・平林金吾「商店・百貨店」『高等建築学』第16巻、常磐書房、1933年より)
百貨店の娯楽性が戦前から注目されていたことを、端的に示しているといえるでしょう。有名な「今日は帝劇、明日は三越」ということばにも納得です。
関東大震災後、建築が高層化しエレベーターガールも登場
1923年の関東大震災による建築物の損傷などもあり、都市部では建物の再建・増改築が顕著となりましたが、百貨店もその例外ではありませんでした。実はそれまでは百貨店は履物を脱いでの「下足」入店を求めるところが多かったのですが、土足での入場がふつうになってゆきます。
また、高層化にともなうエスカレーターやエレベーターの導入も顕著となり、「エレベーターガール」という職業も生まれました。
一方で、震災後の救済措置として始まった百貨店による「マーケット」をきっかけに商品の廉売や、低廉な商品の取り扱いなども始まりました。顧客ターゲットの階層を下げることにより、顧客層を拡大させようとしたのです。先にも挙げた特売日や廉売品の増加により、さらに、拡大したフロア面積に対応するように、商品種類も多様化しました。これら一連の動きは「大衆化」とよばれ、これをきっかけに次第に百貨店は過当競争の時代へと突入します。
もっとも、高級品を取り扱うという本分、ステータスによるブランド価値を百貨店はしっかりと守り、人々の「あこがれ」でありつづけたのです。
伊勢丹がやって来た! 鉄道の普及とともに新宿で百貨店が隆盛
震災後の東京で顕著だったのは鉄道の発達と、都市部の住宅地化です。郊外の住宅地へと人口が流出する一方で、鉄道の出発点であるターミナルのある駅周辺は「ターミナル都市」として独自の発展を遂げるようになります。新宿が歓楽街としても発達したのはその象徴といえるでしょう。
百貨店についていえば1930年に三越が新宿店を開店しています(現在ビックロのある場所)。また、1933年には伊勢丹が神田より移転オープンし、翌34年には隣接していた「ほてい屋」を吸収して現在の広さとなりました。数年前のリニューアルまで伊勢丹のB1フロアの端には一段高い場所があったのですが、これは実はほてい屋時代のなごりなのです。
現在はファッションの最先端をいく百貨店として知られている伊勢丹ですが、当時はそれほどおしゃれなイメージはなく、ファッションに力を入れていくのは戦後のようです。伊勢丹の以前のフロア図を見ると「スケートリンク」が季節により開設されていたことがわかり、やはりイベントに力を入れていたことがわかります。
この時期には、浅草松屋の屋上に主に子ども向けのレジャー施設である「スポーツランド」も開園していました。いまではすっかりすたれてしまった百貨店の屋上遊園が、昭和の象徴であったことを伺える一例だといえるかもしれません。
渋谷文化をリードした東急と東横百貨店
ターミナルデパートといえば忘れてはならないのが、渋谷の東横百貨店です。これは現在の東急東横店で、1934年に開店しました。新宿は何本もの路線が発着するターミナルでしたが、渋谷は東横電鉄(現在の東急電鉄)が開発した住宅地とターミナル都市であり、さらに鉄道資本が経営する百貨店ということで特殊な存在だといえます。なお、渋谷と東急電鉄は五島慶太(1882~1959)が阪急の小林一三(1873~1957)の成功を目にし、薫陶を受けて作ったとされています。
残念ながら現在の渋谷は再開発の真っただ中にあり、当時から残されていた建築物は随時解体されていっています。また、鉄道各社の乗り入れが進み、渋谷駅はターミナルとしての役割を終えてしまいました。今後、渋谷の買い物文化はどう変わっていくのでしょうか。
戦後、そして現在の百貨店は・・・
戦後、高度成長による経済発展で、すこし贅沢な買い物のできる百貨店は隆盛を極めます。一方で変わらず娯楽の場としても存在したため、屋上遊園で遊んだり、お子さまランチを食べたりした思い出を持つ方も多いでしょう。
しかし、そんな百貨店もバブル経済の崩壊を機に、業績が悪化してゆきます。「百貨店の閉店」という見慣れない光景を1999年末の東急百貨店日本橋店(元・白木屋)で、私たちは初めて目にしました。店舗入り口に店員たちが並び、感謝の言葉とお辞儀との後ろで閉じてゆくシャッター。それは衝撃的な光景でしたが、現在ではめずらしいものではなくなってしまいました。
再開発などによる都市の変遷、近年のEコマースによる買い物業態の変化も見られます。一方で、百貨店自体もインターネットでの販売を拡充し、工夫を凝らしています。実は、戦前よりカタログによる通信販売は百貨店の販売方法のひとつでもありましたから、ここに光明が見いだせるかもしれません。インバウンド効果による売り上げもひと段落した感がありますが、近年、モノより経験を売る「コト消費」が注目されていることを考えると、かつて娯楽の殿堂であった百貨店には商機がまだまだあるように思えます。
消費形態の様変わりにより、百貨店の売り上げは落ち込み、「このまま終わってしまうかもしれない」という岐路に立たされていることは事実です。それでも一定以上の年代のかたには幼いころの思い出の地、文化の担い手であり、リーダーでもあった百貨店。これまでと今後に、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。