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【新選組監察 山崎丞】”新選組の頭脳”と呼ばれた男の生き様とは

【新選組監察 山崎丞】”新選組の頭脳”と呼ばれた男の生き様とは

京都の治安維持、攘夷浪士の捕縛・取り締まりで活躍し、「池田屋事件」「禁門の変」「鳥羽・伏見の戦い」などで“誠”の旗を掲げて戦った新選組近藤勇、土方歳三、沖田総司などは今も歴史好きの心を掴み、映画やドラマ、漫画・小説作品の主役として人気を集めています。その一方、彼らのように派手な斬り合いや大立ち回りなどの逸話はありませんが、諸士調役兼監察(しょししらべやくけんかんさつ)を務め新選組の頭脳とも呼ばれた男がいました。

その男の名は山崎丞(やまざきすすむ)。今回は、新選組の活躍をたどりながら、彼の生き様についてご紹介していきます。

山崎丞が新選組で務めた任務

新選組は以下の組織形態で運営されていました。トップは局長、No.2が副長で基本的には一人制です。副長の下に置かれた副長助勤(ふくちょうじょきん)は組長として2人の伍長と約10名の平隊士からなる一小隊を率いました。そして、勘定方(金銭の管理、給与の支払いを担当)や山崎丞が務めた諸士調役監察などがこれを支えたのです。

近藤勇の胸像
新選組のトップとして君臨していた局長の近藤勇の像。

副長助勤について

副長助勤は花形の役職で、沖田総司や永倉新八など、この役職の者が各隊組長を拝命していました。各隊に所属する隊士の監督、市中見廻りなど公務中の作戦指揮や実戦を主な任務としていたことから新選組の中心戦力といえます。山崎丞は組長としてではなく、諸士調役兼監察として唯一の副長助勤でした。諸士調役兼監察として、幹部からかなりの信任を得ていたことが伺われます。

諸士調役兼監察とは?

諸士調役の任務はわかりやすくいえばスパイ(密偵)です。敵方に潜入して情報収集をしたり、対象を尾行したり、首謀者捜索のため市中から多くの情報を汲み上げることを職務としています。監察の任務は組織内の違法行為や脱法行為の捜査と、内部規律(局中法度)に応じて処罰するための証拠集めや調査。縁の下の力持ち的な役回りですが、この部門が機能していたからこそ、新選組が京都の治安維持に大きな力を発揮できたといえるでしょう。

山崎丞の隊での役割

山崎丞は、新選組に入隊したとされる文久3年(1863)の翌年には諸士調役と監察の職務に就いています。伝聞によると、生家は大坂道修町(どしょうまち)の薬種問屋(医薬品の販売、製造を生業とする店)で、大坂、京都の地理とその地域に住む商人たちの事情にも詳しかったとされています。このことが、関東出身者の多い新選組幹部たちには大いに役立ち、山崎の活躍につながったといえます。

監察方としての山崎の行動

諸士調役兼監察としての山崎丞に関する史料はほとんど残っておらず、また職務上偽名や身分を偽ることも多かったため、平隊士ではその存在すら知らない者もいたかもしれません。しかし、総長であった山南敬助の脱走事件や、四番隊組長の松原忠司切腹未遂事件など、幹部が関与した監察事案に副長助勤でもあった山崎が関与していた可能性は高く、常に隊内の動向に目を光らせていたはずです。

医術を学んで隊に貢献!

松本良順の写真
幕府陸軍軍医で、後に陸軍初代軍医総監となる松本良順に医術を学びました。

山崎丞の父親が鍼灸医師であったことから、山崎丞には医術の心得があったようです。簡単なけがの治療などをやっていたという記録が残っています。また、のちに陸軍初代軍医総監となる松本良順が親交のあった近藤勇のもとを訪れ隊士の診察した時、良順から医術を学んだようです。その際に山崎が「我は新選組の医者なり」と言って、周囲を笑わせたと良順の手記に残っています。

新選組隊士たちと山崎丞の関係性

最初の屯所となった壬生・八木家の子息・為三郎は回想録に「身体は大きい方で背が高くて色黒。あまりハキハキとしゃべらない」と残しており、松本良順は「温厚で口数は少なく、辛抱強い」と評しています。そんな山崎丞は他の隊士とはどのような関わり方をしていたのでしょうか?

局長の近藤勇に可愛がられていた?

伏見奉行所跡

「鳥羽・伏見の戦い」で重傷を負った山崎丞は、新選組が江戸撤退のため乗船した富士山丸の船中で死去したとの史料があります。紀州沖で行われた水葬に、近藤勇は肩を負傷していたにもかかわらず、わざわざ正装で出席したそうです。またこの際、土方歳三に「山﨑は良い奴だった。あいつはこんなに大勢の人に見送られて幸せだ」と伝えたともいわれています。彼の死には諸説あり、この葬儀の信憑性には疑問も多くありますが、松本良順は山崎を「(近藤)勇の最も愛する者なりし」と記しており、事実の真偽に関係なく、近藤の心情としてはこのようなものであったと考えられるでしょう。

副長の土方歳三から信頼されていた

新選組が関わった大きな事件で、諸士調役が活躍しています。「明保野亭事件」では「池田屋事件」で逃げた長州系浪士の潜伏先の探索、「三条制札事件」では三条大橋近辺の見張りや各待機部隊への連絡役、「油小路事件」での御陵衛士(高台寺党)の動向探索など諸士調役でなければできない任務も多くありました。これらの事件で、山崎たちが情報を集めて新選組の活躍につなげたことは間違いありません。部隊を指揮していた土方は、これらの情報をもとに判断を下していたため、山崎の報告の正確さに相当の信頼を置いていたと考えられます。

御陵衛士の屯所跡
油小路事件で新選組に斬られた伊東甲子太郎ら、御陵衛士の屯所跡。

その他の隊士たちと山崎

山崎丞の活躍が最もよく伝えられているのが池田屋事件です。「八月十八日の政変」以降、失地回復をはかる長州藩と攘夷浪士を憂慮した京都守護職・松平容保は新選組に京都市中の警備探索を命じます。山崎と同じ探索方の島田魁(しまだかい)は、四条小橋上ル真町で炭薪商(燃料であった炭や薪を販売する店)の枡屋喜右衛門(古高俊太郎)宅で攘夷浪士たちの会合が行われていることを突き止め報告。その後の捜査で武器や書簡が発見され、池田屋での会合が発覚し、新選組の襲撃へとつながりました。同じ監察方として、この島田と山崎は厚い信頼関係があったことがわかります。

池田屋事件の跡地

上司からの評価が高い山崎

入隊から戦死までの約4年間、諸士調役兼監察として神経をすり減らす任務を続けた山崎丞は、精神的にかなり疲弊していたとされています。しかし近藤勇、土方歳三からの信頼を受け、同僚である島田魁や永倉新八からも慕われていたため、内部から恨みを買う恐れのある任務もこなせたのではないでしょうか。山崎の存在と真摯な調査活躍が、新選組の名を後世まで残す一助になったのです。

 

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新選組副長・土方歳三や六番隊隊長・井上源三郎の出身地であり、”新選組のふるさと”と呼ばれている日野市。毎年5月には「ひの新選組まつり」が開催され、多くの新選組ファンが訪れています。今回は”新選組のふるさと日野”をさらに知ってもらうために作られた、日野市限定の非売品手拭いを10名様にプレゼントいたします。

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