現在の日本の首都は東京です。しかし、歴史をみると日本の首都は何回か変わっていることが分かります。特に京に都が置かれるまでは平城京、長岡京、平安京と短い間にめまぐるしく首都が変わりました。こうした日本史上稀にみる首都の変更は、どのような理由で決定され実行されたのでしょうか。
今回は平城京から長岡京、更に平安京に遷都した理由と桓武天皇の考えについて解説します。
平城京から遷都した理由は?
奈良におかれた首都が平城京です。藤原京から元明天皇により都を遷され、以来70年あまり首都として機能しましたが、延暦3年(784)に京都の長岡京に首都が遷されました。どうして平城京から長岡京に遷都されたのでしょうか。
理由その1:寺院の影響力が肥大化していた
遷都の大きな理由として挙げられるのが、奈良時代後半から寺院が力を持ち始めたことです。当時、光仁天皇の後を継いだ桓武天皇は、朝廷権力を拡大する上で仏教寺院の影響力に頭を悩ませていました。そのため、仏教の強い力が及ぶ平城京を遷都し、新たな地を政治の中心にすることで朝廷政治を行いやすくしようと考えたのです。
理由その2:天武天皇系の貴族の力を嫌った
天皇家は代を重ねるに従って複数の系統に分かれていったため、皇族とはいえ一枚岩ではありませんでした。平城京のある大和国は、壬申の乱で有名な天武天皇系の貴族が大きく力を持っていました。当時の桓武天皇は大化の改新を起こした天智天皇の系統だったので、自らと血筋が異なる天武天皇系の貴族たちの力を恐れており、これも遷都の理由の一つになったのです。
理由その3:物資運搬・下水など土地の問題
平城京は物資を運搬するための水路がなく、陸路に頼っていたため、効率的な流通ルートがありませんでした。更に下水問題も抱えており、町は不衛生な状態に置かれていたのです。
その点、長岡京には3つの大きな川があり、船で全国からの物資を運べるため非常に便利でした。また豊富な水を各家庭にひくことによって廃棄物などを流し去ることができ、下水問題も解決できたのです。
長岡京から遷都した理由は怨霊?
桓武天皇にとって平城京よりも優れた都だった長岡京ですが、たった10年で次の平安京に遷都してしまいます。その理由として、当時恐れられた早良親王(さわらしんのう)の怨霊が挙げられます。
藤原種継の暗殺事件とは?
藤原種継は桓武天皇時代の貴族で非常に信任が厚く、あっという間に出世します。桓武天皇の一大事業である遷都の事実上の責任者が彼でしたが、天皇が都を離れた隙に暗殺されてしまったのです。暗殺を実行、補佐したグループの中には、寺院系と関連の深い人物も含まれていました。この事件は多くの影響を残し、何人もの貴族、皇族が処罰されたほどでした。
早良親王の壮絶な死
桓武天皇の弟で皇太子だった早良親王も暗殺に関わっていたとして、廃嫡された上、淡路に流されてしまいます。平城京の寺院と関係が深かったことから、早良親王は疑われてしまったのです。
これを不服とした早良親王は、淡路に行く途中に無実を訴えるために絶食し、河内の国で絶命してしまいました。
桓武天皇の近親者の不幸が続いた
早良親王の死後、桓武天皇の近親者に次々と不幸が襲いかかります。桓武天皇の后や生母らが病死してしまい、皇太子に立てられた安殿親王(あてのみこ)も病気になってしまったのです。また、飢饉や疫病が大流行したことから、早良親王の怨霊がたたっていると恐れられました。古代日本の怨霊を恐れる度合いは現代の比ではなく、桓武天皇は新しい都の造営とさらなる遷都を決めたのです。加えて、早良親王には崇道天皇という天皇号をおくり、その名誉回復につとめました。
平安京は計画都市だった!
平安京は、経済や政治の中心となる土地や建物の周りに次々と建物が建てられる自由発達型の都市ではなく、最初から建物や道の配置が定められた計画都市でした。
唐の首都・長安を見本とした
平安京は北端中央に大内裏を設置し、東西南北に道を渡した碁盤状に区画された都市です。市街の中心には大路を通し、その左右で左京・右京が置かれました。この整然とした町並みは、中国・唐王朝の首都として世界最大の都市に成長していた長安を模したものとされています。
土地は陰陽道から選んだ説
土地の選定に当たっては、中国から伝わった陰陽道が使われたという説があります。これは気の流れと方角などから吉凶を占い、朝廷を置くのにどこが最も縁起が良い場所なのかを知るためでした。現在のように、地質的、経済的、地理的に都市を築く場所を決めるのではなく、陰陽道を取り入れる当たりに、怨霊を恐れた背景が伺い知れますね。
平安京の時代は400年続いた
さまざまな理由から2回も遷都を行った桓武天皇でしたが、首都とするべき場所を選びに選んだその甲斐あってか、平安京を都に置く平安時代は400年に渡りました。また、後の時代では鎌倉などに幕府が開かれますが、天皇は江戸時代の終わりまで京都に朝廷を構えることになったのです。長い間、首都として機能した京都への遷都は成功だったといえそうですね。
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