歴史上には、死後に神格化される人物も少なくありません。多くの場合、その功績がたたえられ、神様として祭られることになります。しかし、それとは少し違う性格を持っているのが学問の神様として有名な菅原道真(すがわらのみちざね)です。現在、日本全国に道真を祭った場所がありますが、これほど多く祭られることになった背景には、道真が「神様」とされた理由が関係しているのです。
今回は、なぜ道真が神様と呼ばれるようになったのか、その功績や人物像、彼の死後の出来事についてご紹介します。
死後、神様と呼ばれた菅原道真
菅原道真は平安時代の貴族です。天皇でも将軍でも武将でもない彼が、なぜ神様と呼ばれるようになったのでしょうか。
道真への畏怖が信仰として広がった
道真は死後に「天満天神」として祭られました。この名前の由来は、人々に災いを与える神の総称「天神」と、道真の怒りが天に満ちたというお告げ「天満」から来ているといわれています。
飛鳥時代のころから、九州には他国との外交や防衛の役割をもった大宰府(だざいふ)が置かれました。政治的に重要とはいえ、華やかな都から見ればかなり遠い場所です。昌泰4年(901)従二位に叙せられた道真ですが、無実の罪により大宰府の役人に左遷され、衣食もままならない厳しい生活の中で、国の安泰を祈り誠意を尽くしました。やがて彼はその地で生涯を終えますが、遺体は都に帰ることはなく大宰府近くに葬られたのです。
そんな彼の死後、都では異変が相次ぎました。これは道真のたたりとして恐れられ、延喜19年(919)醍醐天皇は怒りを鎮めるために社殿の建設を命じます。これが現在の太宰府天満宮の始まりといわれています。
また天慶5年(942)には都の女のもとに道真の霊が現れ、「右近の馬場(現在の北野)に祠(ほこら)を建てるように」と告げます。その後、7歳の子供に道真の霊がつき同じことを告げたため、天暦元年(947)には北野に神殿を建て、道真を天満天神として祭るようになりました。
こうして彼を祭る神社は「天満宮」と呼ばれるようになり、天神信仰の拡大に伴い全国各地に広まっていったのです。
やがて学問の神様となる
もともとは怨霊の怒りを鎮めるという目的で祭られた道真ですが、時がたつにつれ災害の記憶も風化し、やがて学問の神様として信仰されるようになりました。
天神が学問の神様とされるのは、菅原氏が代々学者の家系だったことや、道真自身も学問に優れていたことに由来しています。受験シーズンになると、現在でもたくさんの参拝者が合格祈願のために全国の天満宮を訪れますよね。そういう意味では、歴史上の偉人の中でも、現代人に身近な存在といえるかもしれません。
現在では学問のほかにも、広く文芸・芸能の神様として、また至誠の神様、免罪の神様としても有名です。
菅原道真はどんな人物なのか?
学問の神様として広く知られるようになった天神ですが、それはあくまで道真の死後のことです。生前の彼はどのような人物だったのでしょうか。
幼少期から学問の天才だった
菅原氏は代々学問の家系だったため、道真も幼少時から漢学を学んだり詩歌で才能を発揮したりしました。わずか5歳で和歌を詠むなど、神童と呼ばれていたようです。
さらに勉学に励んだ道真は、18歳という若さで文章生(律令制の大学寮で歴史・詩文を専攻する学生)の試験に合格します。その中から優秀な2人が選出される文章得業生にもなり、その後は学者としての最高位である文章博士にも就いています。
37歳で父が亡くなると、菅原家が継いできた私塾も主宰するようになりました。輩出した学者には優れた人物も多く、道真は朝廷における文人文化の中心になっていったのです。
要職を歴任した人物
学者として秀でていた道真は、政治家としても活躍しました。それまでは家格に応じた官職に就いていましたが、宇多天皇の信任を受けてからは要職を歴任することになります。宇多天皇にとっては、皇室の外戚として権勢を振るっていた藤原氏をけん制する意味合いもあったようです。
寛平3年(891)蔵人頭に補任し、式部少輔と左中弁を兼務。翌年には従四位下に、さらに次の年には参議兼式部大輔と左大弁を兼務します。寛平6年(894)には遣唐大使に任命され、寛平7年(895)には参議在任わずか2年半にして先任者3人を越えて従三位・権中納言の地位を得ました。
そして寛平9年(897)道真は権大納言兼右近衛大将に任命され、大納言兼左近衛大将の藤原時平とともに太政官のトップに並ぶことになります。これは律令官制の最高官である太政大臣に次ぐ地位で、太政大臣が不在の場合は代理を務めることもありました。
道真を見いだした宇多天皇は、醍醐天皇に譲位した際に道真の継続重用を強く求めたといいます。また、天皇の勅許を取り次いだり奏上したりする特権を、時平と道真にのみ許しました。もともと学者だった道真が政治家としてこれほど昇進していくのは珍しいことですが、それだけ道真は天皇に信頼された、優れた人物だったといえるでしょう。
太宰府に左遷された経緯
このような道真の出世は、他の貴族たちの嫉妬の対象となりました。そのため、時平を中心として道真を政界から追い出そうとする動きが出てきたのです。
道真の三女は、醍醐天皇の弟・斉世親王(ときよしんのう)の妃となっていました。時平はこれに目をつけ、醍醐天皇に「道真は自分の義理の息子である斉世親王を天皇にしようとしている」と告げます。これは根拠のないうわさだったとされていますが、この言葉を信じた醍醐天皇は道真を大宰府に左遷しました。
この時代の政務運営に関する事例を掲げた書物である『政事要略』によると、大宰府へ向かう道中は馬や食べ物が給付されず、官吏の赴任としての待遇はしてもらえなかったようです。そのほかにもさまざまな嫌がらせがあったという記述があり、道真がどれだけ強く嫉妬されていたかがうかがえます。
道真亡き後の天変地異とその後
神童と呼ばれ、出世街道を上り詰めた道真でしたが、根拠のないうわさによって不遇に見舞われてしまいました。そんな道真の死後、京の都には恐ろしい出来事が起こります。
朝廷に降りかかる災厄
道真の没した後、都では疫病がはやりました。そのほかにも貴族の死や落雷といった災厄が相次ぎ、人々はだんだんと「道真のたたりかもしれない」とうわさするようになります。
道真を陥れた時平は、延喜9年(909)に39歳の若さでこの世を去りました。これは道真の死のわずか6年後の出来事です。また、延長元年(923)には皇太子の保明親王も弱冠21歳で亡くなりました。このような凶事の連続に恐れをなした醍醐天皇は、道真を元の右大臣の地位に戻し、大宰府に左遷するよう命じた文書を燃やすなどして左遷の事実を取り消しました。しかしそれでも異変は止まりません。
延長3年(925)には時平の孫にあたる次の皇太子・慶頼王(よしよりおう/やすよりおう)が5歳で亡くなり、道真の子供4人が流刑とされた「昌泰の変」に関係した人物の死も相次ぎました。そして延長8年(930)にはついに宮中に雷が落ちます。これをキッカケに体調を崩した醍醐天皇は、そのまま亡くなってしまいました。
死後、異例の昇進をする
恐ろしい災いが続いた京の都ですが、それから時がたった正暦4年(993)、一条天皇は道真に太政大臣の位を贈ります。これは異例といえる死後の昇進でした。それだけではなく、一条天皇は北野天満宮を参拝したり、大宰府天満宮で祭事を行ったりしました。また、道真の子供たちも流罪を解かれ、京に呼び戻されています。
晩年の道真は、平和を祈るととともに、身の潔白を祭文に書き無実を天に訴えたという伝説が残されています。その祈りは帝釈天(たいしゃくてん)や梵天(ぼんてん)にまで達したとされていますが、このような流れを見ていくと、道真の願いは届いたといえるかもしれませんね。
合格祈願をする人も多い学問の神様
幼い頃から神童と呼ばれ学問に長じていた道真ですが、最期は太宰府で不遇の死を遂げます。その裏には貴族社会の権力争いや嫉妬といったさまざまな理由が隠されていました。詩歌を愛し学者として勉学に励んできた道真にとっては、歯がゆいものだったでしょう。
しかし、後に彼の名誉は無事に回復されました。怨霊として語られることもある道真ですが、今では学問の神様として広く人々に信仰されています。
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