戦国時代、織田信長は有力武将らを討ち領土を拡大していきました。信長は次々と居城を変えましたが、その中でも天下統一を目指す拠点としたことで有名なのが岐阜城(旧名:稲葉山城)です。
この城はもともと斎藤氏の居城でしたが、「稲葉山城の戦い」によって信長に奪われました。信長にとってこの城はどのような意味があったのでしょうか。
今回は、信長が「稲葉山城の戦い」に勝利した経緯や、岐阜城で行ったことについてご紹介します。
織田信長と稲葉山城の戦い
「稲葉山城の戦い」は永禄10年(1567)に美濃国井口(現在の岐阜県岐阜市)で起こりました。これにより斎藤氏の居城だった稲葉山城は信長の手に渡りますが、信長は以前から何度もこの城を攻めていたようです。
この戦いが起こった経緯
織田氏と斎藤氏はもともと対立していましたが、斎藤道三の娘・濃姫と信長の婚姻により同盟関係となりました。しかし、長良川の戦いで道三が息子・義龍に討たれると、両氏の関係は再び悪化してしまいます。
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元を討った信長は、徳川家康と清洲同盟を結び、本格的に美濃攻略を開始します。勢いづいた信長は稲葉山城を攻めますが、攻略できないまま撤退。その後、斎藤家の家臣である竹中重治(竹中半兵衛)らにより稲葉山城乗っ取りが起きますが、半年後には斎藤氏に明け渡されます。
この頃の斎藤家は家臣の離反が目立ち、不安定な状態が周囲の目にも明らかでした。一方の信長は戦いを重ねて中濃地方の勢力を手に入れており、さらに稲葉山城を攻めたてたのです。
『信長公記』に描かれる戦いの様子
『信長公記』によれば、この戦いの際、斎藤家の有力家臣だった西美濃三人衆が密かに織田家へ連絡してきたといいます。これは人質を受け取ってほしいという内容で、信長はこの受け取りに村井貞勝と島田秀満を派遣しますが、その帰りを待たずにすぐ美濃へ侵攻します。この軍勢を見た斎藤龍興側は「これは敵か味方か」と戸惑いますが、信長は一気に城下の井口に攻め入り、町を焼き払って稲葉山城を丸裸にしました。こうして信長はわずか半月で稲葉山城を攻略したのです。この戦いは、豊臣秀吉が出世した戦いとして講談でも有名です。
関連記事:【織田信長を最も知る男】「信長公記」を書いた太田牛一
信長により「岐阜」と命名!
稲葉山城の戦いで勝利し、この地で天下統一を目指した信長。彼はいったいどのような行動を起こしたのでしょうか。
井口を岐阜と改める
稲葉山城の戦いに勝利した信長は地名を井口から「岐阜」と改め、城の名前も「岐阜城」とします。『政秀寺古記』によれば、信長は「井口という名前はよくない」といい、禅僧・沢彦(たくげん)が挙げた3つの候補「岐阜」「岐陽」「岐山」から岐阜を選んだといいます。このとき沢彦は「古代中国の周王朝は岐山の麓から中国全土を平定した」という故事を披露したそうです。
一方、岐阜という名称は信長が採用する70年以上前から、すでに使われていたという説もあります。これは応仁の乱の際に美濃に逃れた禅僧らが、助けてくれた土岐の殿様への感謝を示して岐の字を用いたというものです。いずれにせよ、天下統一を目指す信長にとって岐阜は縁起の良い名称だったといえそうです。
「天下布武」の朱印を用いる
信長は城の命名とともに「天下布武」の朱印を用いるようになりました。これまでの通説では「天下布武」とは全国統一を指すものと解釈されてきましたが、近年の研究によれば、この「天下」は室町幕府の将軍および幕府政治のことであり、地域としては京都を中心とした五畿内を意味するものと考えられています。つまり信長は、この言葉によって五畿内に足利将軍家の統治確立を宣言したのです。
一方で、天正8年(1580)以降、北条氏が治める関東を支配下において、近畿地方の本願寺を打倒すると、この「天下」は日本全土を指すようになったという説もあります。
岐阜城の構造について
岐阜城は金華山(旧名:稲葉山)の上にあり、京都から東に位置する山城でした。難攻不落として知られており、山頂部に石垣が作られ、平坦な面が少ない構造になっていたようです。
信長が居城としてからは、この山頂部に信長の家族や人質が暮らしていました。道三の時代の稲葉山城は典型的な詰城として機能していましたが、信長以降は戦いのためではなく居住するための城となったようです。
信長はこの城で人をもてなすことも多く、宣教師ルイス・フロイスもその様子を書き残しています。
信長にとって岐阜とは?
何度も侵攻してようやく攻め落とした岐阜城ですが、信長にとって岐阜とはどのような土地だったのでしょうか。
戦略拠点として利点が多かった
永禄3年(1560)尾張に侵攻してきた今川義元を破った信長は、小牧山で初めての築城を始めます。小牧山城は美濃攻略のために急遽造られたと考えられてきましたが、近年の発掘調査で本格的な石垣を備えた城だったことがわかりました。この小牧山城から本格的に美濃攻略を開始した信長ですが、美濃攻めはわずか4年で完了したため、信長は斎藤氏から勝ち取った稲葉山城へと入城し、その城を岐阜城と改めて新たな拠点とします。
岐阜城は金華山の頂上にある天然要害であり、東海道や東山道を押さえる交通の要所でもありました。美濃攻略の先に畿内の掌握や上洛を見ていた信長にとって、岐阜城は戦略拠点として多くの利点があったといえるでしょう。
安土城を築くまで拠点とする
岐阜城を拠点としてさまざまな戦いに出陣した信長ですが、その後は安土城を築城しています。この城は安土山に造られたもので、地下1階、地上6階建ての絢爛豪華な城だったようです。
信長がこの城を造った目的は、岐阜城よりも京都に近く、琵琶湖を利用できるなど利便性に優れていたことが挙げられます。また北陸街道から京への要所だったため、越前・加賀の一向一揆や上杉謙信を警戒していたといえるでしょう。
信長は生活拠点を岐阜城から安土城に移しており、家族は本丸付近で、家臣は中腹や城下の屋敷で生活していました。
信長が天下布武を掲げた地
稲葉山城の戦いに勝利した信長は、この地を岐阜と改め新たな拠点としました。天然要塞だった岐阜城は、天下統一を目指す信長にとって利点の多い重要な城だったといえます。
信長は勢力拡大とともに居城を替えたことでも知られますが、その拠点は見晴らしの良い場所が多かったようです。岐阜城からの景色を目にした信長は、一体どんなことを考えたのでしょうか。天下布武を掲げた地でもある岐阜は、天下人の道へのスタートラインだったといえるでしょう。
<関連記事>
【尾張の大うつけと呼ばれた男】織田信長の幼少期にまつわる逸話
【明智光秀と織田信長】二人の出会いと関係性とは?
【今川義元の最期と首】信長による奇襲!桶狭間の戦いの結末