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【夏目漱石の代表作品】特徴とあらすじ、影響を与えた出来事

【夏目漱石の代表作品】特徴とあらすじ、影響を与えた出来事

夏目漱石は、森鴎外と並んで日本近代文学の巨頭として知られる作家です。かつて1000円札の顔になったこともあるため、親近感を持つ人も多いかもしれません。
漱石にはヒット作が多く、時代を超えて読み継がれている作品がたくさんあります。その一部は教科書にも載っているため、誰しも一度は読んだことがあるでしょう。
今回は、漱石の作風や代表作品のあらすじ、作品に影響を与えた大きな出来事などについてご紹介します。

夏目漱石の作風とは?

日本には著名な小説家がたくさんいますが、それぞれ作風は異なります。
漱石作品の作風とはどのようなものなのでしょうか?

「余裕派」と呼ばれた

漱石の作品は、人生に対して余裕を持ち、世俗的な気持ちを離れてゆったり自然や芸術を眺めるという低徊(ていかい)趣味的な要素があったことから、「余裕派」と呼ばれました。
彼は江戸の名主の家に望まれない末っ子として誕生し、幸の薄い少年時代を過ごしたといわれています。そのような背景から国家に反抗的な態度を貫き、それが作風に表れたといえます。

神経衰弱や大患が反映されている?

漱石は年々病気がちになり、肺結核、糖尿病、胃潰瘍など多数の病気を患っていました。そのため登場人物が病気がちだったり、作中に診察の場面が描写されたりと、自身の経験が下地になっている作品が多数あります。
また神経衰弱やうつ病も抱えていたといわれ、これは精神医学上の研究対象にもなったようです。

読書におすすめ!知っておきたい漱石の代表作

漱石は多くの作品を残しましたが、その中でも特に親しまれている作品がいくつかあります。
ここでは今なお愛されている漱石の代表作をいくつかご紹介します。

吾輩は猫である

明治39年(1906)中村不折によって描かれた『吾輩は猫である』の挿画です。

漱石の処女作にあたる長編小説です。
主人公は、中学校の英語教師・珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)の家で飼われている名もない猫の「吾輩」。この猫の視点から、珍野一家やそこにやってくる友人、門下生、理学者、詩人らの人間模様が風刺的に描かれます。
書き出しの「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」のフレーズは、さまざまな場面で使われるほど有名です。

坊っちゃん

初期の代表作です。
英語教師となった漱石が、愛媛県の尋常中学校(現在の松山東高校)で教鞭をとり、熊本の第五高等学校へ赴任するまでの体験をもとに描かれています。
主人公は無鉄砲で血気さかんな新任教師。同僚の山嵐とともに理不尽な教頭や赤シャツに立ち向かいます。
登場人物の描写はどこか滑稽(こっけい)で、ほかの作品に比べて大衆的な雰囲気があり愛読者が多い作品です。現代でいえば勧善懲悪の少年漫画のように楽しめる作品かもしれません。

草枕

初期の名作といわれる作品です。
熊本県玉名市小天温泉をモデルとした那古井温泉を舞台に、非人情の世界を描いています。この作品に表れる絵画的な感覚美の世界は、自然主義文学への批判が込められているといいます。
「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という冒頭の文章には、現代人も共感するのではないでしょうか。

こころ

作中で「私」と「先生」が出会った神奈川県鎌倉市の由比ヶ浜です。

漱石作品の中でも評価が高く抜群の知名度を誇る作品です。
『彼岸過迄』『行人』に続く後期3部作の最後の作品で、日本で一番売れている本ともいわれています。
主人公の「私」のもとに届いたのは、学生時代に出会った「先生」からの遺書。そこから先生の過ちや後悔が明らかになるという手紙形式をとった小説で、人間の矛盾や苦悩が描かれています。
「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉も有名です。

明暗

病没のため未完となった作品です。
円満といいがたい夫婦関係を軸に人間の利己心(エゴイズム)に迫っています。漱石作品としては最長で、則天去私(漱石自身の造語で、自我の苦しみを自然の道理に従って生きることに求めようとしたもの)の境地を描こうとした作品と考えられています。
この作品ではさまざまな人物の視点から情景が描かれており、ほかの作品にはない特徴となっています。

作品に影響を与えた大きな出来事

多くの作品を描き、日本を代表する文豪となった漱石。
そんな漱石の作品に影響を与えた出来事とは、どんなものだったのでしょうか?

正岡子規と意気投合する

漱石に大きな影響を与えた正岡子規の肖像です。

明治22年(1889)漱石は同窓生の俳人・正岡子規と出会い、彼から文学的・人間的影響を受けました。二人の友情は、学友の間で回覧された子規の文集『七草集』の批評を漱石が手がけたことから深まり、子規が亡くなるまで続いたといいます。
漱石という名前は、『晋書』にある故事「漱石枕流」(負け惜しみの強いこと、変わり者)からとったもので、もともとは子規が使用していたペンネームの一つでした。漱石はこれを譲り受けたのです。
子規は漱石の優れた漢文・漢詩に驚いたといわれており、漱石の才能に気づいた最初の人物といえるかもしれません。

留学先で文学に没頭

漱石の英国留学前の送別記念写真です。(前列右が漱石)

明治26年(1893)帝国大学卒業後に高等師範学校の英語教師になった漱石は、失恋や病気による神経衰弱で2年後に辞職し、その後は故郷の愛媛県尋常中学校や熊本市の第五高等学校(現在の熊本大学)に赴任しました。
そして明治33年(1900)英語教育法研究のため文部省に命じられて留学。シェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグの個人レッスンを受けながら英文学研究をし、明治34年(1901)には化学者・池田菊苗との同居で刺激を受け一人下宿にこもって研究に没頭したといわれています。

高浜虚子による職業作家への勧め

明治36年(1903)留学から帰国した漱石は、第一高等学校と東京帝国大学(現在の東京大学)の教壇にたちます。大学では小泉八雲の後任となりましたが、漱石の硬い講義は不評だった上、やる気のなさを叱責した高校の生徒・藤村操が入水自殺してしまいます。
神経衰弱に陥った漱石は、高浜虚子の勧めで処女作『吾輩は猫である』を執筆。これは精神衰弱を和らげるために描かれたものでしたが、子規門下の会「山会」で好評となり続編も執筆しました。
作家として生きていくことを考え始めた漱石は、その後も立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていったのです。

日本近代文学を代表する作家

明治期に活躍し多くのヒット作を生み出した漱石は、紙幣の顔に選ばれるほど知名度が高い作家です。その作品は現代でも大勢の人に親しまれており、各作品の有名フレーズは様々な場面でたびたび使われます。
学校で学んで以来、漱石作品に触れていないという人は、今もう一度読んでみるとまた違った感想を抱くかもしれません。この機会にぜひ、代表作に触れてみてはいかがでしょうか?

 

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