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【金ヶ崎の退き口】光秀と秀吉が殿を務めた、信長唯一の撤退戦とは?

【金ヶ崎の退き口】光秀と秀吉が殿を務めた、信長唯一の撤退戦とは?

戦国武将のなかでも不動の人気を誇る織田信長ですが、そんな彼もすべての戦いに勝利したわけではありませんでした。自害のきっかけとなった本能寺の変はもちろんのこと、義弟に裏切られる結果となった「金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)」も、信長にとっては予想外の展開になった戦いといえるでしょう。
今回は「金ヶ崎の退き口」の概要と合戦の経緯、撤退時の様子、その後の信長の動きなどについてご紹介します。

金ヶ崎の退き口の概要

「金ヶ崎の退き口」は、信長唯一の撤退戦といわれています。まずはこの戦いの概要を振り返ります。

信長の人生最大の危機となった戦い

この戦いは信長と越前・朝倉義景の戦闘の一つで、「金ヶ崎の戦い」「金ヶ崎崩れ」とも呼ばれています。信長は金ヶ崎城の攻略そのものは成功させていましたが、その後に人生最大の危機に陥りました。なぜなら、背後からやってきた浅井軍により、挟撃の危機に晒されたからです。

ピンチに陥った理由とは?

信長の妹・お市の方は北近江の浅井長政に嫁いでおり、浅井家と織田家は同盟関係にありました。両家は「朝倉への不戦の誓い」をしていましたが、信長はこの約束を破って朝倉氏に攻撃をしかけます。長政は付き合いの長い朝倉氏との関係を重視し、妻の兄である信長を裏切るという苦渋の決断をしたのです。

合戦の経緯

この戦いはどのように進行したのでしょうか?撤退を決意するまでの経緯を見ていきます。

若狭・武田氏攻めを装って侵攻

元亀元年(1570)信長は若狭守護の武田氏攻めを装い、約3万人の軍を率いて出陣しました。ところが、織田軍は若狭を越え越前の朝倉領へと侵攻。信長の真の目的は、自分に従わない朝倉家を討伐することだったのです。織田・徳川連合軍は天筒山城を皮切りに敦賀へと侵攻し、翌日には港を押さえる金ヶ崎城を攻撃しました。

要害・金ヶ崎城が落城!

現在の敦賀湾。かつてこの地に金ヶ崎城がありました。

敦賀湾に突き出た約86mの丘の上に築かれた金ヶ崎城は、三方を海に囲まれた要害でした。敦賀郡の郡司で一門衆筆頭の朝倉景恒がこの城に籠城して対抗しますが、援軍が遅れたこともあって織田軍の猛攻に耐え切れなくなってしまいます。そのため、降伏勧告を受け入れてその日のうちに開城。この背景には本家の義景らとの序列争いがあり、わざと援軍を遅らせたという説もあるようです。こうして織田軍は天筒山城、金ヶ崎城、疋檀城を攻略して敦賀一帯を制圧し、合戦を優勢に進めていきました。

義弟・浅井長政の裏切りがわかり…

朝倉勢の本拠である一乗谷に進軍した信長でしたが、ここで信じられない情報が入ってきます。それは、義弟であり盟友でもある北近江の長政が裏切ったという知らせでした。『信長公記』によれば、当初、信長はこの話を信じなかったといいます。しかし、次々に飛び込んでくる知らせに、ついにそれを事実だと認め、朝倉氏と浅井氏による挟撃を避けるために撤退を決意したのです。

お市の方が信長に知らせたという俗説も

織田軍が長政の裏切りに気づいたのは、織田家の外交・諜報を担当していた松永久秀が浅井方の不審な動きに気づいたからといわれています。また、俗説としては、長政に嫁いでいた信長の妹・お市の方が、小豆袋の両端を紐で結んで信長に送り、夫の裏切りによる挟撃を知らせたというエピソードも残されています。ただし、これは後世の創作という見方も強いようです。

撤退を決めた信長軍

長政の裏切りにより撤退を余儀なくされた信長。その撤退戦は被害を最小にとどめるだけでなく、非常に統率のとれたものでした。

明智光秀らが殿をつとめる

東京都立図書館蔵の『太平記英勇伝二十七:明智日向守光秀』です。

信長は金ヶ崎城を木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に守らせると、自身は若狭経由で京に向かいました。『武家雲箋(ぶけうんせん)』では明智光秀や摂津守護・池田勝正が殿(しんがり)を務めたとされ、最近の調査によれば、勝正が殿軍を率いて朝倉軍の追撃を撃退したことがわかっています。殿軍は後退する際の最後尾の部隊で、敵の追撃を阻止して本隊を守ることから、最も危険な任務でした。これは武芸や人格に優れた武将が務める大役だったのです。

徳川家康も殿軍にいた?

『寛永諸家系図伝』『徳川実紀』では徳川家康も殿軍に加わったとされていますが、一次史料からは家康の名は発見できないようです。信長にとって家康は大切な同盟相手で、本能寺の変の数日前には、家康を丁重にもてなすよう光秀に命じています。このような関係性から、家康が殿軍にいたとは考えにくいといわれています。

秀吉が名乗りを上げたとされるが…

通説では、このとき秀吉が自ら殿軍を名乗り出て、敵中で孤立していた信長を逃がして奮戦の末に命がけで脱したといわれています。しかし、戦場には秀吉より地位が高い光秀や勝正がいたため、殿軍の一武将として功をあげたというのが実際のところのようです。ただし、秀吉はのちに論功行賞(手柄の有無や大小に応じた賞)でその貢献を称えられています。その働きは、信長から黄金数十枚を与えられるほどでした。

合戦後の織田信長の動き

東京都立図書館蔵の『太平記英勇伝・壹:小田上総介信長(織田信長)』です。

京に向かって撤退した信長はどうなったのでしょうか?撤退後の信長の行動について振り返ります。

朽木越えを経て京へ逃れる

信長は越前敦賀から朽木を越え、わずか10人程度で京へ逃げ延びました。これは近江国の豪族・朽木元綱が信長の撤退に協力したことで実現したものです。元綱はもともと信長を殺すつもりでしたが、久秀の必死の説得により意見を変えたといわれています。そして、数日後には殿部隊も無事に京へと帰還しました。

浅井長政討伐の準備へ

京に到着した翌日、信長は窮地を脱してきた様子は一切見せず、平然と振舞ったといいます。しかし、心中ではすでに次の合戦に向けての策を練っていたのかもしれません。1週間ほど経った後、信長は軍勢を立て直し、長政討伐の準備にとりかかるべく岐阜へと向かいました。

そして姉川の戦いへ

金ヶ崎の戦いで織田軍は優勢に合戦を進めていました。もし、浅井軍の登場がなければ、信長は一乗谷に進軍していたでしょう。現在の研究では、朝倉家内部の統制がとれていなかったことが織田軍優勢という結果につながったという考え方もあるようです。
長政の裏切りで撤退を余儀なくされた信長は、それでも人生最大のピンチを乗り切りました。そしてこの後、歴史に残る「姉川の戦い」 で再び義弟と戦うことになるのです。

 

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