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【激闘!桶狭間の戦いの謎 前編】今川義元は、やはり上洛を狙っていた?

日本史上には、いわゆる「ターニングポイント」となる重要な事件がいくつもある。戦国時代の合戦でいえば「桶狭間の戦い」も、間違いなくそのひとつだ。

わずか数千に過ぎない織田信長軍が、今川義元の大軍を撃退した歴史的な一戦。総大将の首まで獲る最大の戦果をあげた、戦国史上でも稀に見る逆転劇だった。

この結果、信長は戦国大名として急速に台頭、尾張一国にとどまらぬ多大な影響力を持ち、いっぽうの今川家は急速に衰退していった。今回は、そんな「桶狭間の戦い」を、2回に分けて分析していきたい。

なお、この項では信長に関する第一級資料『信長公記』(合戦に参加したとみられる信長家臣・太田牛一が執筆)を、主な参考文献としている。それ以外にも都度、参照したものがあれば提示する。

今川義元は、なぜ尾張を攻めたのか?

義元が尾張へ侵攻したことで火ぶたが切られたこの合戦。侵攻の目的はなんだったのか。

もっとも、今川勢と織田勢はそれ以前からたびたび国境付近で激突していた。そうしたなか、尾張の鳴海城と大高城、蟹江城が今川方となるなど今川軍が優位に立っていた。

ただ、桶狭間の戦いにおける「侵攻」は、それまでと違った。家臣に任せるのではなく、総大将・今川義元がみずから出陣したことだ。おそらくは尾張攻略と信長打倒に「本腰」を入れたものとみられる。

創作とみられてきた「義元上洛説」だが……

桶狭間に布陣した今川義元(尾張名所図会より)

よくいわれてきた「上洛説」は、近年では否定されている。先にあげた太田牛一『信長公記』によれば、

「御国の内へ義元引請けられ候の間、大事と御胸中に籠り候と聞へ申候なり。」(尾張の国へ義元勢が侵入してきたため、信長はこれは大事になるぞ、と胸中に覚悟したと聞きおよぶ)とある。

それを受けて信長が丹下砦、善照寺砦、中島砦を整備し、「今川義元沓懸へ参陣。」と、唐突に合戦の様子へと描写が移る。「義元上洛」などの文言は見当たらない。

それが、『信長公記』より後年に書かれた小瀬甫庵(おぜほあん)の『信長記』(1622年刊)になると、こう記される。

「爰(ここ)に今川義元は天下へ切り上り、国家の邪路を正さんとて、数万騎を率し、駿河国を打立ちしより……」

『信長公記』をもとに著された小瀬甫庵『信長記』(国立公文書館蔵)

つまりは「上洛して国家の悪をただす」と、明確なスローガンがあらわれるのだ。小瀬甫庵は太田のように信長家臣ではなく、作家という立場から『信長公記』を大幅に脚色して『信長記』を著した。よって、これも彼の創作である可能性は否定できない。

さらに、その『信長記』を下敷きに遠山信春が書いた『総見記』(1702年刊)では「永禄三年の夏の比、今川治部大輔源義元、駿河三河遠江の大軍を引具し、天下一統の為に東海道を上洛するに、先づ尾州を攻平げ、攻上らんと企てらる」と、やはり「上洛」とはっきり書かれ、その意志が明確な形になっている。

小瀬甫庵や遠山信春が合戦にドラマ性を持たせ、読み物として面白くした『信長記』、『総見記』により、「義元上洛」説が主流となり「義元の野望を信長が阻止した」というのが定説になった。

近年、この小瀬甫庵や遠山信春の軍記物は信ぴょう性が低いとして太田牛一『信長公記』の重要性が見なおされ、「上洛説」が否定されるようになっている。しかし、義元とて尾張攻略のあとは美濃や近江へ進出するか、または斎藤氏や六角氏と同盟し、そのうえで上洛したいとの思いもあったのではないだろうか。

ましてや、義元に先駆けて信長や上杉謙信が上洛して将軍に謁見していたのだから。そうとなれば、『信長記』、『総見記』の描写もあながち間違いとはいえない。

ただ、この「桶狭間の戦い」の時点では、まず信長を倒しての尾張攻略こそが第一の目的であったはず。東の北条や武田とは「甲駿相」三国同盟を結んでいたから、義元の眼が常に西へ向いていたことは間違いない。

今川軍、幸先良く2つの砦を落とす

永禄3年(1560)5月12日、義元は駿府を発ち、尾張をめざして東海道を西進。5月17日、尾張・沓掛城へ入り、そこに本陣を構えた。

翌18日夜、松平元康(徳川家康)ら三河勢を先発させ、大高城に兵糧を届けさせる。大高城は尾張攻略のための重要拠点とみられており、今川に与する武将・鵜殿長照(うどのながてる)が守備していた。しかし、このときは織田軍の拠点に囲まれて窮地に立たされていた。これを救援し、兵糧を補給させたことで、義元は第一目標が果たせたわけだ。

大高城を囲むように信長が設置した丸根砦と鷲津砦は、早々と今川軍に落とされた(国立国会図書館蔵 桶間部類絵図より)

その甲斐もあって戦局は今川軍有利に推移し、翌19日の夜明け前より、松平元康と朝比奈泰朝は織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始。ほどなく、これを攻め落として大高城周辺の制圧にも成功した。あとに述べるが、義元は「幸先よし」と大いに喜んだ。

信長は、なぜ動かなかったのか?

さて、いっぽうの信長は18日に敵軍接近の報を受けるも、清須城から動かずにいた。

信長の居城・清須城跡。信長の時代、天守はなかったとされる

「其の夜の御はなし、いくさの行(てだて)はゆめゆめこれなく、色々世間の御雑談までにて……」(『信長公記』)とあるように、家臣を呼び付けても世間話だけで解散させたという。

このありさまに、家老衆も呆れて笑ったという。『信長公記』の記述だから信じて良いと思うが、裏を読めば、これは今川方の間者を欺くため「うつけぶり」を演出したのではなかろうか。あとで述べるが、今川軍を領内深くまで誘いこみ、兵力の分断を狙う作戦だった可能性がある。

その後、先の通りに丸根砦、鷲津砦が攻撃を受けているという知らせに、ようやく飛び起きた信長は『敦盛』を舞い、具足をつけて立ったまま飯をかきこみ、慌ただしく清須城を出た。

主従6騎で3里(12キロ)を走り、向かったのは、熱田の源太夫社(げんだゆうしゃ。現在の上知我麻神社=かみちかまじんじゃ)だった。信長はここで丸根砦、鷲津砦の方角を眺め、そこから煙がのぼっていることを見て陥落したことを知った。その間、雑兵200名ほどが集まってきている。

熱田神宮での戦勝祈願は無かった?

旧説では、このとき信長が熱田神宮に戦勝祈願をしたとされている。しかし、『信長公記』など、信頼に足る史料にはそのような描写はない。現在の上知我麻神社は熱田神宮の境内にあるが、当時は近所ながら別の場所にあった。そもそも一刻も争う状況下で、悠長に戦勝祈願する余裕はなかったか、あったとしても簡単に手を合わせた程度と考えるべきだろう。

出陣した織田信長(尾張名所図会より)

信長はそこから前線へ出て丹下砦へ移動し、さらに前線の善照寺砦へ入り、将兵の集結を待った。おそらく信長は刻一刻と変わる戦局を注意深く見極めつつ、攻撃をしかけるタイミングをはかっていたはずだ。そうしながら味方が集まってくるのを待ったと思われる。

ただ、このとき信長は移動のたびに家臣に諌められている。信長は真意を誰にも明かしていなかったようで、その行動が奇怪なものに思われたのだろう。それも自軍の行動が敵に漏れるのを防ぐためであったのか、あるいは撹乱する意図があったのかもしれない。幾度も生死の修羅場をくぐってきた信長らしい指揮ぶりといえた。

4万5000とされる、今川軍の兵力の実態は?

さて、そのころ今川義元の本陣は沓掛城から大高城への移動のさなかにあり、「おけはざま山」で休息中だった。「今川義元おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」と『信長公記』は記す。

桶狭間という地名は今も愛知県に残るが「おけはざま山」という山はない。これは固有の山の名前ではなく、当時の大脇村と桶狭間村の境界にある巻山、幕山、高根山などの総称だった。その峰の西側中腹に、義元は本陣を置いた。

桶狭間古戦場の碑(愛知県名古屋市)

このとき、両軍の兵力についても古来諸説ある。『信長公記』に今川軍4万5000、織田軍2000とはっきり書かれているものの、今川軍の数が多すぎると見る人は多い。じつに20倍以上である。のちに東海地方を制した徳川家康とて、「関ヶ原」での本隊の動員兵力は3万人程度(推定)だった。

『信長公記』は、信長の事跡を知るうえでもっとも信頼に足る史料だが、信長の家臣が主君の顕彰のために書いたものだから、鵜呑みにできない記述もある。また実は『信長公記』には、「桶狭間の戦い」が、永禄3年(1560)ではなく、8年前の天文21年(1552)の出来事として書かれているという間違いもある。注意深く見る必要があり、悩ましいところだ。

この4万5000という数字もそのひとつで、織田軍の戦功を讃えるため、実際より多く書かれたという見方もできる。

「今川義元、(中略)鳴海にて四万五千の大軍を靡かし、それも御用にたたず、千が一の信長、わずか二千に及ぶ人数に叩き立てられ、逃がれ死に相果てられ……」と、戦勝を記す太田牛一の筆の踊り具合から見ても、そうした可能性はある。

もっとも、これらすべてを牛一の創作としてしまうのも気の毒だ。合戦当時に、今川軍側が自軍を巨大に見せるために喧伝していた数字が4万5000だった、『三国志』の赤壁の戦いで曹操軍が実際の動員数は20万足らずであったのに、80万を号したといわれるのにも似ている。あるいは、この戦場ではなく今川領すべてを合わせた全兵力がそれぐらいだったという見方もできよう。

このとき今川軍は大高城などの前線に相当数の兵を送り込んでいたが、義元本隊はそれでも織田軍より多い兵力数を有していた。戦後、織田軍が討った首の数は3000というから(これも誇張かもしれないが)、間違いないところだろう。

(後編はこちら

文・上永哲矢

 

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